2013年3月20日水曜日

Historian Ben Vinson III on Afro-Mexican History


Historian Ben Vinson III on Afro-Mexican History

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ベン・ヴィンソンIIIはジョンズ・ホプキンス大学の歴史学者で、そしておそらくアフロ·メキシカンの歴史における世界有数の学者です。 彼はアフロ・メキシカンに関する数冊の本を出版しています。Bearing Arms for His Majesty: The Free-Colored Militia in Colonial Mexico (Stanford, 2001)、 Flight: The Story of Virgil Richardson, A Tuskegee Airman in Mexico (Palgrave, 2004)、 Afroméxico (Fondo de Cultura Economica, 2004)などがそれにあたります。彼は黒人の歴史と音楽に関するAfropopの"Hip Deep"ラジオドキュメンタリー”La Bamba”に参加している学者でもあります。ここではプロデューサーMarlon Bishopによるヴィンソン教授へのインタビューを紹介します。メキシコを旅したAfropopのブログとアフロ・メキシコの映像シリーズもお見逃し無く。

Marlon Bishop: まず始めるにあたって、アフロ・メキシカンという用語は何を意味しますか?
Ben Vinson: 良い質問です。基本的に「アフロ・メキシカン」という用語はメキシコにいるアフリカ系の人々の事を指します。通常それは、奴隷貿易の時代に連れて来られた植民地時代の起源を持っている人々を指します。人々は彼ら自身がメキシコ人かどうかと考える傾向があるので、用語としての「アフロ・メキシカン」は、実際には少し異論があると思います。外国系のアイデンティティを盛り込む事が問題になり、最近では2012年9月にその用語を使用するメキシコ系のアフリカ人の集団によって宣言されました。

Scholar Ben Vinson
Scholar Ben Vinson

1940年からメキシコで使用されていた別の用語がありました 、それは「アフロ・メスティーソ」です。それは基本的に黒人文化を考えるのとは別ですが、本当の黒人文化は人種が混ざり合いパッケージされています。そのその用語は、アフロ・メキシカンの偉大な父、ゴンサロ・アギーレ・ベルトランによって大衆化されました。

MB: メキシコにおけるアフリカン人の存在はどのようにして始まりましたか?
BV: メキシコにアフリカン人が現れたのはは初期の植民地時代にさかのぼります。1519年から1520年にかけてスペイン人が上陸し、彼らを援護するアフリカ人を連れてきてました。時には奴隷として、時には現場作業員として、または率直に言うと征服者として。

Drawing of African Conquistador Juan GarridoDrawing of African Conquistador Juan Garrido

偉大なアフロ・メキシカンのコンキスタドールまたは征服者の一人にフアン・ガリードがいます。実際にスペインによる複数の地の征服に参加し、メキシコは彼の永眠した場所でもありました。故に、歴史は実際に奴隷の排他的な話ではないものでもあります。それはスペイン人が現れた最初期から、メキシコでは自由と奴隷に取り囲まれていた一つの例でもあります。

MB: そこから歴史を通して私たちに教えてください。次は何が起こりますか?
BV: 何が起こるかといえば、奴隷制度は16世紀に少し衰退を始めたことです。ラテンアメリカ全体に住んでいた先住民族の人々の何百万人のうち、70〜90パーセントの減少がありました。このことからスペイン王権は、代替する労働力資源を探し始めました。そしてアフリカの人々は、最有力候補であり実験的にカリブの国に始まり、それからメキシコに連れてこられました。
初期のアフロ・メキシカンは多くの産業で働いていました。ベラクルスや、他のメキシコの太平洋沿岸での綿花栽培や、銀鉱山や牛泥棒や使用人として。
17世紀には少し変化がありました。植民地の政府はプランテーション型の労働に従事している先住民の数を削減する政策を執ろうとしました。彼らは、それが既にネイティブの人口が下がり初めていたことが、非常に弊害をもたらすと危機を感じていました。そこでアフリカ人奴隷の輸入を増やしました。それが実際に我々がメキシコの奴隷貿易の全盛期期間と呼んでいるものは、およそ1580〜1650年代まで行われていたものです。スペイン人の新しい世界に連れてこられた奴隷のうち約半分はメキシコに行き、残りの半分の大多数はペルーの方に連れて行かれました。記録に残るおよそ25万人程の人々(おそらくはもっと)がメキシコに連れてこられました。

MB: その後、メキシコでは奴隷制は廃れていったのですか?またはそうではなかった?
BV: はい、それには多くの理由があります。1580年から1640年の間、スペイン王権はポルトガル王権に合併され、ポルトガル人は奴隷貿易の独占を始めました。その事が彼らに大量の奴隷を新世界に連れてくる事が可能になりました。1640年に独占が終了し、奴隷は18世紀後半の半ばまで続いた内部の奴隷貿易を通じ、違法な手段でやってきました。奴隷制度は終了しません。それは継続されましたが、メキシコに直接入ってくるアフリカ系の人々の数は低迷し始めました。これが本当のムラート、もしくは多くを占める人種の混ざった黒い集団の誕生と成長とは何かを示すものです。あまりにも多いので、およそ1810年までには、メキシコの人口の10%がアフリカ系の人々でした。これは当時のアメリカ合衆国の人口とほぼ同じでした。

MB: あなたの本「 Bearing Arms for His Majesty」では植民地軍のアフロ·メキシコ人の役割に焦点を当てていますね。そのことについて教えてください。
BV: アフリカ系の人々はラテンアメリカで兵役し、特にメキシコでは特に民兵組織であったことが重要な役割の一つです。1550年代に、アフリカ系の人々は民兵の中のかなり上位のランクに入っていました。私が民兵の研究で発見したことの一つは、民兵が特定のポジションに所属していたことは、アフリカ系の人々を調和させるための構造を作ったという事です。それは共に民兵の特権にまつわるアイデンティティの感覚を発展させるものでもありました。民兵を通じて、アフリカ系の人々は、重要な職務、火災時に旧副王宮殿を防護したり、警察官を派遣したりなど、本当に防護され、スペイン王制の支持を得る事が出来ました。1700年代に警察がまだ存在しなかった世界では、これら黒人の兵隊が基本的に街をパトロールしていて、 人々は法律を遵守する市民だったことが確認できます。アフリカ系の人々はまた、地方の政治を発展させるためにこれらの民兵を使っていました。彼らは、知事や市長の権限に従事するために、銃とその評判を使うことができたので、それはアフリカ系の人々の非常に重要な政治の場となりました。これらは植民地時代に、これらの民兵は本当にアフロ・メキシカンのアイデンティティを沈殿させ、アフロ・メキシカンの存在に関する議題を展開できる方法のほんの一部です。

MB: メキシコの軍雄たちの一部は、アフロ・メキシカンだったと言われておりますが、それは正しいですか?
BV: 確かに、もっとも有名な恐らく2人いて、一人はメキシコの独立戦争時代のJosé María Morelosです。彼はメキシコの太平洋地域におけるアフリカ系の他の人々の支援を受け、メキシコを解放する主要なゲリラ戦士でした。噂によると、彼はアフリカ系として見られないよう巻き毛を隠すために、ストッキングキャップともいえる、頭の上にハンカチを巻いていました。
Morelos
José María Morelos

1820年代後期のメキシコの大統領だったビセンテ·ゲレロもそうでした。実際に彼は1829年頃、奴隷制を廃止するための責任者でもありました。彼は独立闘争の別の主人公であり、もちろんその担当者でもありました。言うなれば1829年のバラク・オバマでした。アフロ・メキシカンの歴史の中で最も偉大な2人は恐らくこの二人でしょう。

MB: これらの時代にメキシコでどれほどアフロ・メキシカンが重要だと見なされていたか、それはどうして国民の意識から消えてしまったのかがとても奇妙です。何が起きたのですか?
BV: はい。最初にまず、アフロ・メキシカンは完全に消える事はありません。しかし何が起こるかというと、1820年代初頭にメキシコがスペインから解放されたときから、市民にとって新たなダイアログが始まりました。先住民が中心となり、受け入れられ、国民から絶賛されることになりました。
もうひとつ指摘すべき事があります。特に1800年代は、国の北部を植民地化するためにメキシコに来たアフリカ系アメリカ人がたくさんいました。また鉄道の路線や他の産業で働くためにメキシコに入って来たカリブ海から多くの人々がやってきました。世界中の他地域から、これらの新しい黒人が入ってくると何が起こるかというと、彼らはメキシコの政治家のために便利な仕組みを作りました。それは「黒人はここにはいない。いるのは外国人だ。」というものでした。それはメキシコの政治家が使っていた言葉で、というのも、率直に言うと、19世紀にはアフリカ系の人々で構成されていることは、国として呼ぶには喜ばしくなかったからです。アフロ・メキシカンは消えた事はありません。そして国の風景を通して探す事が出来るでしょう、しかし彼らの政治的な言説に起きている事や、アフロ・メキシカンが国民としてのアイデンティティを描くことを消し去るきっかけが増えてしまっていることに気がつくでしょう。

MB:  MorelosやGuerreroのような国民的ヒーローが、その後にメキシコの州全てを名付けたような人々から、彼らのアフロ・メキシカンの遺産はなぜ祝福されなかったのですか?
BV: それには大きな理由があります。彼らはアフリカ系とされる必要がありませんでした。というのもそれは国家の言説ではないからです。人々は人種の話をする前に、市民について話します。実際現在もそのようなことがあるでしょう。それは、メキシコおよび他のラテンアメリカの国が持っていた、"人種問題"を抱えていた米国のような国と隣り合い、区別することができた方法でした。これらの場所では平均化の一部として人種を含んでいなかったため、差別はありませんでした。
また、これらのアフロ・メキシカンのコミュニティは人種の混合に関わっていたということを覚えておく必要があります。彼らはその点においてアメリカ合衆国に率いられていた世紀を持っていて、そしてもちろん私達の人種差別に関する法律は多くの点で、アフリカ系の人々が人種に関係なく入り交じることを妨げています。だから、より開かれた社会の中では、アフロ・メキシカンが国家の人口のより広い人種の一部になることが可能となります。今日では、たとえば特定の個人の名前で Juan Pardo や Julia Moreno と名付けられた人を時々見かけます。これらは黒人の名前で、文字通りJuan Brown 、Julia Blackという意味です。それらはアフロ・メキシカンが世代を遡り繋がっているという糸口になります。

MB: それで、時代を早送りすると、今アフロ・メキシカンはどのあたりにいますか?
BV:  今では、アフリカ系の人々は、太平洋側のアカプルコの南Costa Chica(小さな海岸という意味)と呼ばれる地域にいます。この地域は1960年あたりまで、先述したように「忘れ去られてた」場所でした。1960年代までハイウェイが作られる事もない田舎の一つでした。だからその分離と孤立を考えると、外部からの妨げが最小限であったので、植民地時代からアフリカ系の人々の人口が増えていた地域であり続けたのです。特に重要な他のアフロ・メキシカンの人口の多いところは湾岸にあるベルクルスという町です。こちらはさらに複雑な状況です。というのもここのアフリカ系の人々は、その先祖が植民地時代に遡る人々と同様に、最近の移民の両方がいるからです。アフロ・キューバ人やたくさんのカリビアンが、人や物の流通で当時主要だったベラクルスの港を通じて流入してきました。
Veracruz
Veracruz

ベラクルスはメキシコ人の想像の中では黒人の町だとしばしば見なされてきました。それは  "黒人は外国人で、彼らは外から来た" または "黒人が外国人でないのなら、この特定の領域内に閉じ込めて、国内の他の場所に広がらないように" とする動向のための格好の地でした。まだ知られていない部分があるかもしれません。メキシコの南部の国境側にも主にベリーズからやってきたアフリカ系の人々がいます。アメリカ合衆国との国境近い北部にもほんの少しですが、そこにもアフリカ系の人々が散らばって生活しています。そこはアフロ系アメリカ人が19世紀に植民地を設立した場所でした。広くなく、微かなコミュニティがあり、しかし少なくとも彼らは認められる価値があります。

MB:  彼らが使う「第3のルーツ」とは?
BV:  1980年代初めに、メキシコ人の「第3のルーツ」のムーブメントがどこからともなく起こりました。それはメキシコの3つめのルーツ、アフリカ系のルーツに目を向けようとする政府を主体とする構想でした。またそれは、メキシコ人の混じった人種を確認するための政策でもありました。それはアフロ・メキシカンの歴史は必ずしもアフロ・メキシカンを理解するだけが必要なのではなく、人々がどのように大衆に交わっていったかを理解することが重要です。それが1980年代に始まったプロセスです。それは学者や学生、大衆からさらに注目を集めるようになりました。

MB: この動きはアフロ・メキシカンのコミュニティーそのものにどのような影響を与えましたか?
BV:  ひとつはアフロ・メキシカンのコミュニティーそのものに、メキシコ東海岸の政治的で文化的なグループに動きを与えることになりました。特に何年もメキシコに住んでおり、アフリカ系の人々に彼らの歴史を着目させたトリニダード人の神父 Padre Glyn Jemmott の支援などがそうです。それは大学のコミュニティで、ダンスグループや劇場、ラジオ、アフロ・メキシカンのヒップホップ、他たくさんの事が再度、文化的に開花した事に関与しました。これは現時点で、メキシコの今の風景をつくる重要な傾向です。

MB: 最後の質問です。これらは音楽に関連していますか?
BV: もちろんです。忘れてはいけないことの一つは、これらの人々が文化を創り、1500年代にメキシコに奴隷として上陸した瞬間に始まり今に至るまで、アフリカ系の人々がコミュニティーを作り上げ、文化的な生産物の側面で行われていたということです。文化が作られると、人々は意識的にあるいは無意識のうちに、自分たちのルーツに戻っていくようです。アフロ・メキシカンの文化の側面があるため、温存されてきました。それには繰り返しがあり、現代において文化的実践の再適応を経て、時代を超えてアフロ・メキシカンの習慣は系譜され生き延びて来たのだと思います。痕跡は微かにしかありませんが、その関連性と意味は常に、植民地時代から現代へと最作成されます。

2013年3月13日水曜日

Afro-Mexico Road Trip #3: Cumbia, Costa Chica Style


Afro-Mexico Road Trip #3: Cumbia, Costa Chica Style

marazul

Cuajinicuilapa, Guerrero
私達は、多くのアフロ・メキシカンのホームとも言えるCosta Chicaのなかでも大きな町、Cuajinicuilapaで数日間過ごしました。荒廃しつつあるその町にはアフロ・メキシカンの博物館があります。Eduardo Añorveという、恐らく他の誰よりもCosta Chicaでは黒人の遺産として知られる人物と、多くの時間を過ごしました。彼は数年前に、クリオーリョとしての人生とさらに繋がるために故郷へ戻った詩人であり、写真家、アーティスト、ライターでもある人物です。近年、彼は地元の新聞のためにレポートを書いたり、新聞を売ったりして生計を立てています。もし彼の本"Los Hijos de Machomula" を読む機会があれば、Costa Chicaのアフロ・メキシカンに関してのそのテキストは最良のものとなるでしょう。

 Picture 3
Eduardoは私が間違ったことを探していたということを教えてくれました。「文化人類学はいつも別のなにか違うものを探しにくる。chilenacorridos、artesaのダンスなど。」と彼は言います。「そして。彼らはさらに関連するそれらのスタイルを見つける事を望んではいない。40年前には、chilenaはみんなが踊っていたメインとなる音楽でしたが、今はもはや化石です。

クンビアは、彼によると、 本当にCosta Chicaの音楽について知りたいのであれば着目しなければならないリズムだそうです。「みんなそれを何かコマーシャルなものだと思っていて、もしくはただの他のクンビアのコピーだと思っているので、それ自体を勉強しようとしない。」とEduardoは語ります。しかしそれは全てではなく、非常にユニークな発展をとげ、その土地のナイトライフに提供されるだけではなく、クリオーリョのクンビアのスタイルは、メキシコを超えて大きな影響をもたらしました。

CONJUNTO ACAPULCO TROPICAL. 1974. (mundolalis.blogspot.com)

Eduardoが言うには、70年代後期にゲレロ州のtierra calienteからはじまったアカプルコ・トロピカルと呼ばれるグループから始まったとのことです。そのバンドは、当時メキシコのどこにでもあった素の音楽よりも、コロンビアスタイルのクンビアをまねようとしていました。彼らはRCA-Victorとレコードを出す契約をしようとしていたけど叶わず、海岸沿いで行われる彼らののコンサートでレコードを売り、人気になったようです。「本当にアンダーグラウンドでインディペンデントなムーブメントがありました。後にそれはコマーシャルになりましたが。」

彼らの最大のヒット"Cangrejito Playero"は、Eduardoが言うにはメキシコの歴史の中で最も演奏され、売れて、海賊版になったクンビアだそうです。アカプルコ・トロピカルのスタイルは、今となっては誇られるべきCelso Piñaのようなクンビアの "コロンビア" スタイルをモンテレイへともたらすことになりました。「アカプルコ・トロピカルを通じてCosta Chicaの音楽はメキシコやラテンアメリカ全土を侵略した。」とEduardoは語ります。


広がりつつある他の地域のクンビア・バンドは、最も顕著なところではConjunto Mar AzulのほかLos Cumbieros del SurLa Luz Verde de Acapulcoなどです。海岸沿い音楽は他のクンビアとは区別され、より明るく、そして通常はアコーディオンとコーラスのかかったエレクトリックギターがグルーヴィーにフィーチャーされるものです。Eduardoは海岸沿いのクンビアのグループは、ローカルな場所をネーミングしたり、釣りのような現地の経済活動などについて語る事で彼らの音楽を作っていたと指摘しています。もっとも重要な事は、ここにいる皆は「アカプルコからHuatulcoまで、若者、年寄り、母親達、子供達、アフロ、インディへナ、みんな、関連してる。」と彼は言います。恐らくこの地域で近年最も愛されているクンビアバンドのMar Azul のビデオを見ると、彼らがアフリカの遺産だというのには少し疑念が産まれるように思えます。


Mar Azulや他の海岸沿いのバンドはゆっくり演奏し、センチメンタルな歌でメキシコのbaladasの伝統の引き継いでいます。しかしCosta Chicaのbaladasは、他のとは違い、もっとリズミカルで情熱的なエレキギターが特徴的です。Eduardoはそれはこの地だけのジャンルで、彼はbolero criollo(クリオーリョのボレロ)と呼んでいます。

チェックしてみてください。 “Mi Castigo”



2013年3月12日火曜日

Afro-Mexico Road Trip #2: The Chilena


Afro-Mexico Road Trip #2: The Chilena


Afropopのプロデューサー、Marlon BishopとNina Macintoshはラジオドキュメンタリー"Hip Deep"のリサーチのため、アフロ・メキシカンの音楽遺産を巡って2週間ドライブしてきました。これは彼らの旅からのレポートになります。他のアフロ・メキシコのロードトリップシリーズはこちらから。

Cruz Grande, Guerrero
私たちの旅の最初はCosta Chica、国内最大のアフロ・メキシカンがいると知られているメキシコの太平洋岸の地域でした。それは、アカプルコ、プエルト・エスコンディドのビーチリゾートの間に孤立していて、広く貧しい地帯の広がる町です。しかしメキシコの民族的な政治の変化(後述)は、”アフロ・メキシカン”もしくは"アフロ・メスチーソ"としてのアイデンティティへと地域そのものを導きました。それはcosteñosとして、彼らの文化をクリオーリョ、またはクレオールとする最もよく知られていることです。

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これらの町のうちのひとつ、Cruz Grandeは見事な青い教会の回りに位置するとてもリラックスした場所です。私たちは、この時代にクリオーリョの音楽的な伝統を存続し続けてるLos Gallardo一家と話すためにやってきました。彼らの間で最も重要なchilena(son de artesaとしても知られる6/8拍子のバウンスした音楽)はハープやギターのような形をしたビウエラなども含むたくさんの弦楽器で演奏されます。ほとんどのメキシコの民族音楽はパーカッションが脚光を浴びるが、chilenaではcaja de tapeoという小さな木の箱を木片で叩く楽器でテンポがキープされます。

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Eulaliohは、Costa Chicaに残る最後のchilenaのハープ奏者の一人です。その昔、chilenaは、海岸沿いのパーティの音楽でした。夜の祭りでひっくり返したカヌーの上で漁師が踊ったのが最初と言われるアルテサの、長方形の形をした場所で踊るリズム伴奏だったとされています。その話が本当かどうかは、アルテサは民俗舞踊の公演の領域に追いやられ、もはやパーティーでは行われなくなったため定かではありません。事実、今のchilena自体はかろうじて海岸沿いで演奏されているだけに過ぎません。経済的なサポートもなく、ほんの一握りの音楽家が伝統のためにそれを享受しています。

Eulalio Gallardoはその一人であり、家族でそれを行っています。彼の祖父は地元の演奏家として愛されていました。彼の父(もEulalio Gallardo)は20世紀中頃の偉大な音楽家で、沢山のよく知られた地域の曲をつくりました。彼はLos Gallardoという5人の兄弟でバンドをやっており、近年では10代の息子達とともに教会や結婚式など必要にかられればどこでも演奏をしました。Gallardoになるということは音楽をやるというを意味しました。「私の父は生前、私の息子たちにこの曲を教えてほしいと言っていた」とEulalioは語ります。「我々が生き残るために他のことをやって仕事をしなければならない場合でも、我々は、ミュージシャンの心を持って、それを育てていき、これを大事にするつもりだ。」と。

Eulalioは驚くべき音楽家で、短い間でしたが私たちがともに遊んだ間に、私は彼が豊かなバリトンで歌うはもちろんのこと、ハープ、ギター、ビウエラ、そしてギタロンを演奏するのを見ました。政府等のサポートを受けるまで伝統的な沿岸沿いの音楽は、パーティーのために小さなスピーカーシステムを借りたり、マリアッチのライブ会場で演奏されていました。彼の妻は米とチョコレートとシナモンで作る地元の飲み物(chilate)を売って売り上げの足しにしていました。
Eulalioと彼の息子達は数曲演奏してくれました。それはラジオでも聞く事ができます。インターネットでchilenaの録音を見つけるのは難しく、彼はこのブログだけで曲をシェアすることを許してくれました。この曲は“El son del cardenal,”というLos Gallardoによるもので、彼らの父Don Eulalioへのライブ・トリビュートです。
 (Sones, Chilenas, y Corridos: Homenaje a Don Eulalio Gallardo)

Chilenaのアフリカのルーツは、他のアフロ·ラテン系の音楽(サンバやクンビア)のように目立っていません。しかし、文カ的にミックスされた面は非常にアフリカのルーツを色濃く残しています。音楽の歴史を紐解く上では実際にそう言わざるを得ません。  地元の言い伝えでは、ラテンアメリカの太平洋岸を下ってきた貨物を荷下ろしていたチリの船員が Costa Chicaに彼らの民族音楽をもたらしたと言われているため、chilena,もしくは"Chilean"と呼ばれいます。それが本当だと言う人もいるし、フィクションだと言う人もいますが、多くの人はそうだと思っていて、海岸沿いに暮らすアフロ・メキシカンがその町のchilenaを作ったを思っています。


メキシコシティーではメキシコ人の民族音楽研究者のCarlos Ruizにインタビューをしました。彼は、Costa Chicaの音楽はアフロ・キューバやアフロ・ブラジル音楽に見られる重いパーカッションが欠けていることに驚いてはいけません、と言います。彼が言うには、学者達は植民船の記録を分析し、マリやセネガルといったたくさんの弦楽器の伝統とそれほど多く打楽器を使わない西アフリカの国からメキシコに奴隷として渡ってきたと主張します。彼はまた、Costa Chicaのchilenaとベラクルスのson jarochoの両方は、足をパーカッションとしたダンスと弦楽器が混ざって演奏されているのは偶然ではないと言っています。
Eulalio Gallardoは彼は個人的には彼の音楽はアフリカから来たどうかは断言出来ないが、海岸沿いの音楽には特別な何かがあると同意しています。「私たちが演奏する音楽のテンポやリズムは、他のメキシコのものとは異なっています。ここでは音楽はアップビートで、ヴァイヴを感じると思います。」と彼は言います。
次はLos Gallardosとさらにchilenaについて詳しい映像をアップする予定です。お見逃し無く。


All photos by Nina Macintosh.

Afro-Mexico Road Trip #1: Introducing Afro-Mexico


Afro-Mexico Road Trip #1: Introducing Afro-Mexico

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メキシコ音楽にあるアフリカの遺産を探るラジオドキュメンタリーのプロジェクト"Hip Deep"のリサーチのため、1月の初めにメキシコにリサーチに出かけました。Afropopでは初となるメキシコにフォーカスしたプロジェクトです。同じテーマで短編映像のシリーズを制作する映像作家のNina Macintoshも同行しました。メキシコとアメリカの友人や家族の反対を押し切り、私たちは古い車を借りてアフロ・メキシカンの音楽と歴史をなぞり、あちこちを運転しました。

最初に、メキシコシティーから山を降りゲレーロ州にあるCosta Chichaを訪れました。クンビアほど伝統的ではないが、クリオーリョのコミュニティで伝統的なchilenaが演奏され、エネルギッシュな場所です。そこから私たちは海岸へ降り、最も狭いポイントで交差する場所を超え、アフロ・メキシカンが影響したSon Jarochoの若者達のリバイバルを体験出来るベラクルスの南の町を訪れました。そしてベラクルスの市街へ、メキシコでアフロ・キューバの普及を促進した港まで運転をしました。最後にまた山を上りメキシコシティーへ戻り、かっこよい年配の人々が未だにアフロ・キューバのdanzónで踊る古びたダンスホールを訪れました。


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アフロ・メキシカンのリサーチは、ラテンアメリカの他のアフリカ系の伝統音楽の研究とは大きく異なります。というのも「アフロ・メキシカン」が何を意味するのかが未だ明確ではないからです。事実、植民地の記録によると、10万人以上のアフリカ人が奴隷として16世紀から17世紀にかけてメキシコに連れてこられました。1793年にはメキシコの人口の実に10パーセントの人々(=37万人)がアフロ・メキシカンだったと当時の国勢調査の記録が残っています。ビセンテ・ゲレロなを含む大統領や、革命のリーダーJosé Morelosなど初期のメキシコの軍隊の英雄達はアフリカ人の先祖を持っていました。

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史実やメキシコでの日常、人々のアイデンティティの中では"アフロ・メキシカン"という用語はさらに明確にはなっていません。ほとんどの場合アフリカ系の人々は、先住民とヨーロッパ系と完全に混血化されてきました。長い間、メキシコ人のイデオロギーは、混血の先住民とヨーロッパの血に基づく "raza cosmica"( 宇宙の競争)の概念を信奉してきました。そして、メスチーソの概念とそのものはメキシコでは国家のアイデンティティの大きな一部となりました。アフリカは「3番目のルーツ」と呼ばれ、決して語られる事がありませんでした。

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Benigno Gallardo ゲレーロ教師組合のリーダー、アフロ・メキシカン活動家
近年では驚く事に、多くの人がアフロ・メキシコについて語るようになってきました。アメリカとメキシコの両方で学術的な論文や博物館での展示などが行われるようになり、政治的な組織も現れるようになりました。国民の認識を後押しするためにアフロ・メキシカンであるアイデンティティを重要視する努力がなされていて、それは文化的な取り組みのために多く必要な資金調達を可能にしました。ラジオ番組やドキュメンタリーがあり、語られる事のなかった歴史的なグループに声を与え、忘れられた歴史を取り戻すこととなりました。

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Eduardo Añorve(ゲレーロ州 Cuajinicuilapa出身)ジャーナリスト、詩人、アフロメキシカンの研究者
一方で懐疑的な説もあります。そのいくつかは、"アフロ·メキシカン"の概念は、米国の研究者、メキシコに対するアメリカの人種的な考え方によって作られたと言われています。もしくはそれは、アフリカ系アメリカ人との政治的連帯のために人種的根拠に興味のあったチカーノの活動家により育まれたと言われています。裕福なヒッピーやアカデミズム以外のメキシコの人々は、しばしばその黒い遺産の話をしばしば不安げに話したりします。用語としての議論では、それはアフロ・メスチーソ、アフロ・メキシカン、単にafrodecendiente(アフロの子孫)とでも呼ぶのでしょうか? Costa Chicaで出会った一人の文化活動家は、彼の文化は"アフロ·メキシカン"ではないと主張していました。彼はクリオーリョまたはクレオールという考えを好んではいませんでした。そしてアメリカのson jarochoのグループがしばしば彼らの音楽のアフロ・メキシカンの起源を売り込む一方で、Los Cojolitesのようなベラクルスのjarochoの有力なグループのメンバーに、彼らの音楽のルーツ、アフリカについて尋ねると苦笑いを浮かべるなり、「それは、彼らが私たちに言ってるだけだ。」と言っていました。それは彼らの音楽の解釈でもあるが、大きく複雑な文化の一部でしかありません。
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だからこそ以下がポイントになります。
それは複雑である。
それは政治だ。
常にそれはアイデンティティである。

しかしこのプロジェクトを経て、我々が持つ最善のツール=音楽で、その複雑さを探求する機会を得ました。それはこのHip Deepの最初からの使命であり、自分自身が同じく踊りながら、歴史と文化の濁ったスープを探索することでもあります。


All photos by Nina Macintosh.

2011年11月16日水曜日

Quantic Really Digs Colombia



Quantic Really Digs Colombia


DJでありプロデユーサー、キュレーターであり並外れたディガー。クアンティックは現在進行形の最大のラテン音楽家の一人であるが、彼はラティーノではありません。イギリスの田舎に生まれ、彼は2007年頃までソウルフルでダウンテンポなエレクトロニカをプロデュースして最初の10年間とても優れたキャリアを作った後、突然ラテン寄りに転向しました。


 “Mi Swing Es Tropical,” という曲、彼が Nickodemus と Candela Allstars と一緒にプエルトリコで行ったものは大きなブレイクスルーを引き起こしました。彼のアーティストとしての発展の新しいフェーズの起点に非常にふさわしいものです。またそれは、彼をラテン音楽漬けにし、コロンビアに移住までさせるきっかけとなりました。

このクアンティックのベストともいえるコンピレーション(Tru Thoughtsからリリース)を記念して、
Quantic(Will Holland ) をサンフランシスコまで訪れ、ショーの前に少しおしゃべりする時間をもらいました。







- 最初にラテン音楽を聴き始めたきっかけは何ですか?


- それはプエルトリコでのことでした。
Nickodemus に Candela Allstars のところで録音しないかと招待されました。それがラテン音楽に触れた最初のきっかけです。私はそれまでにたくさんの音楽を聴いていたし、多くのレコードも買っていました。しかし、それが実際にミュージシャンと交流した最初の出来事で、非常にクールで興味深いものでした。でも私にとってはレコードがすべてでした。レコードを掘る事に常に興味がありました。





-
 レコード堀りがあなたをコロンビアに連れていったきっかけだったのですか?どこに滞在していましたか?


- はい、私はとても Ray Pérez y と Dementes に入れあげていました。これらのレコードはベネズエラのもので、Afredito Linares もペルーのもので.. これらのレコードは全て、カリ周辺にシーンが展開されていました。多くの人はこれらのレコードではカリについて叫んでいるのだと思っています。というのもカリは70年代のサルサの大きなメッカであり遊びに行くスポットだったからです。


そして私の友人 Beto (Soundway Records’ Roberto Gyemant) は重いレコードの買い物になると断言し、実際にそうなりました。とても面白く、別世界のようでした。ファンクや、レゲエのレコードを探スことから始まり、それはまるで新しい宇宙のようであり音楽的な発見でした。


私は ”掘る” という言葉が時に好きではありません。というのもそれは、特定のノスタルジーを意味するのであって、おそらく現代と過去を分離してしまうからです。レコードを探すときに一部の人は、いくつかのアーティストのレコードを書いたかがる僕の友達でさえ、ストリートで同じアーティストが演奏していたのに誰も彼らに話しかけようとしません。




- そのシーンではありませんが、あなたの音楽にはノスタルジックな側面も存在していますよね。なぜならあなたは常に60年代や70年代の審美眼にアプローチしているような音ですよね?



- ええ、確かに。あなたはその時代の全てが最高の状態だったことを理解していますね。それは車のようなものでジャガーなどの車が可能性を持っていた時代、それらは美しく、手で設計されていたからでした。それが音楽にも同じように起こったのです。フェンダーのギターをを持っていたとします。人はこの素晴らしい楽器を作り、そのスタイルから外れた若い人達がいて、レコード業界は可能性があるかぎり本当にトップでありえたのだと思います。




- 当時間違いなくクリエイティブな頂点があったのだと。


- 全くその通りです。でも私は「おお、今っぽくない..
」というようなノスタルジックな感覚にはなりたくありません。なぜならそれは別のことだからです。たくさんの人がいるを想像しなければいけません。70年代にはその業界に入り込む間口は広かったように見えるし、いあはただその機会が無いだけだと思います。今ではシンガーソングライターとして認められていない多くの才能を持った人がいると思います。彼らは Marc Anthony のように歌わないし、彼らは見つけてもらおうとは思っていないのです。数千枚売り上げる可能性があることを証明できない限り。



- 最近、古いラテン音楽のディガーやプロデューサーの興味に
大きな変化が起こりましたが、それはあなたには起こらなかった。それは単に、ファンクやソウルのブレイクビーツのサンプルとして起こったのだと思いますか?レコード箱はたくさん掘られすぎて、他の場所を探す必要が迫られてきたのでしょうか?

- 基本的にそれは終わりに近づいてきて、また前進に向かっていると思っています。新亜kしなければならないし、同じ古いもので在り続けるわけにもいきません。ファンクやソウルもほんとにエイミー・ワインハウスや
、シャロン・ジョーンズのようにコマーシャルになってしまいました。みんながそれに飽きてきて「よし、他のことをしよう。」と大きな事になったのです。私自身、個人的には「何がブレイクビーツ?」と思い始める程、ブレイクはそんなに探されていますか?boom-bap のようになるだけですか?それはブレイクですか?ブレイクビーツはコンゴ音楽に成り得ますか?ただのアメリカのファンクより、リズムを探すことなのです。




- 最近のコロンビアへの世界的な関心のブームについてはどう思いますか?それは突然、つい2年くらい前から世界中で、特にヨーロッパ、アメリカ合衆国で、長い間無視されてきた、素晴らしい
コロンビア音楽が発見されてきましたが。

- はい、なぜだか私にもわかりません。私はそれらが無視されてきたとは思っていません。
Carlos Vives や小さなワールドミュージックのサークルの交流を除いて、70~80年代、90年代でさえコロンビアの音楽は本当に海外に流通するのが大変でした。それは別のことでした。ワールドミュージックのシーンはそんな恩恵も受けず、para planchar のようにソフトになっていったのでした。


私はひとつの鍵はインターネットにあると思います。コロンビアの情報がわかるようになり、音楽が聴かれるようになったのです。





- でもヨーロッパのレコードレーベルが、
このような古いコロンビアの音楽をリイシューすることはどうでしょうか?あなたは個人的にたくさんのコンピレーションのキュレーションに関わって来ました。そして特にコロンビアに対する関心は否定できないと思います。この10年間そのようなことは起こらなく、おそらくブラジルにフォーカスしていましたよね。

- はい、ほんとうにそれはそうです。たしかにイギリスでよく起こっていたと思います。ブラジルに対してもそれらの動きはいまだあると思います。なぜかはわかりません。たぶん世界がそれに対応してきたのだと思います。それまでは準備できていなかったのだと。多分聞いたことですが。



私は7~8年前、その時は理解していなかったけどコロンビアのレコードを持っていました。でもあまり興味がわかなかった。今は聴くようになり、違った解釈ができるようになって、とても好きになりました。人間の聴覚は、ただ心理的で、同じものを聴いても解釈が異なるのです。








- 新しいクンビア(
ñu-cumbia)の流行についてどう思いますか?


- かっこいいと思います。いわゆる爆発的に流行するもののように、大きな変化がありたくさんのいい作品があります。Andrés Landero や Los Gaiteros をサンプリングする人が多くいて、それらは素晴らしいと思います。しかしほんとに多くのコロンビアのミュージシャンは、いまだにそのようなスタイルで演奏することができるのです。コロンビアの民謡は、一般的に言われるように gaitas や cumbias のように100年前から変わっていません。


新しいマッシュアップを聴くとよく、オリジナルがいいのになぜそうする必要があるのかと思ったりもします。アメリカ人に受け入れられる為にどうして古いレコードにビートを足す必要があるのでしょうか?それは何故か?そんなの必要ありません。みんなそれがどんなものが受け入れられているかを学ぶ必要があると思います。





- ヨーロッパ人が興味を持つコロンビアの音楽と、コロンビア人が興味を持つコロンビアの音楽に違いはあると思いますか?



- そこは面白いポイントだと思います。それは確実にあります。広いギャップのようなものです。それは外国にいるイギリス人、外国にいるアルゼンチン人のようなものです。故郷を思い出させる有名なアルゼンチンのヒット曲だけに興味がある人がいて、彼らは中心から離れたものには興味を持っていないのです。確かに外国にいるコロンビア人やラティーノは一般的にノスタルジーを持っているが、彼らはサルサを聞きたがり、これらの無名なものは聞きたがりません。それと同じ事です。


私がコロンビアにレコードを買いに行ってクンビアやレアなを Fruko のレコードを探していて、セールスマンが私に、「この70年代の英国ロックのレコードを見てください」というようなものです。というのも彼らは私でさえ知らないようなイギリスの70年代のロックにとても感謝の気持ちを持っているからです。





- あなたがコロンビアに着いたとき、若者の平均的な感覚はクンビアやそのルーツよりもヨーロッパやアメリカの音楽の方に興味があるということはショックでしたか?


- コロンビア人は真っ先に外からやってくるものに価値を見いだし認めていくという事です。そして誰かが外国からやってきて彼らの音楽を演奏しても、そこに価値を見いだし、その国に関心が湧くのです。それは奇妙な現象です。完全に植民地以降の現象です。これに関して論文すら書けそうです。






- 私の考えでは ñu-cumbia は全て、メキシコやアルゼンチンを発端とした動向で、外国人が最初に関心を示したのはそこだったのではないかと思っています。


- クンビアに伴う危険は、それはバズワードのようになる事です。クンビア.. クンビア... でもクンビアである必要のないものも多くあります。アルゼンチンのものはたくさんあります。多くのものは素晴らしいですが、全然クンビアではないものも沢山あります。それはレゲエだったり、ダブステップだったり。





güiro(ギロ)のループが入っていさえすれば、何でもクンビアとみなされると。


- その通りです。そして私たちが忘れてはならないことは、アフリカのドラムパターンの重要性でもあります。彼らにとってそれは話し言葉のようであり、コロンビアの Costeños はそのように聴こえます。それは彼らが話すためのパターンでもあります。だからアルゼンチンのクンビアを聞いたら、彼らはただただ不思議に思う事でしょう。私が海沿い出身の太っちょ男 Aníbal Velázquez のように演奏したら、彼らは混乱してしまうでしょう。全然違うも感じですからね。




- しかしそれがクンビアが違った方向に進化し、違った方法でそれぞれの国の文化にどうかしていった要因でもありますよね。



- 全くその通りです。とても美しいですよね。悪い事ではないと思います。



- 私のブログにコメントを残した誰かが言ってたのですが、あなたと Frente Cumbiero はメデジンの Discos Fuentes のスタジオで一緒にプロジェクトの録音を行おうとしてるとか。私はそれを聞いてチビりそうになりました。


- はい(笑)。私たちはブリティッシュカウンシルのファンドを取る事ができました。それはまだ何をすべきか準備中ですが、でも2〜3週間 Fuentes を借りることになっています。そこへは何回も行った事があり、とてもかっこよく80年代にスタジオを建て直したので、ちょっと昔とは違うけど、基本的には同じコンセプトです。




- 私はあなたがまだ現役のあの時代のミュージシャン達を招くと思っていますが、どうでしょうか?



- はい。Michi Sarmiento、Afredito Linares、Aníbal Velázquez、Pedro Beltrán などの太っちょ達です。いま頼んでいます。




Tru Thoughts や Soundway からリリースする予定ですか?


- Soundwayかもしれませんね。まず終わらせないと行けません。常にギャンブルです。どのようになるかわかりませんから。良くなるといいのですが。




- あなたはカリに住んでいるので、“Las Caleñas son como las flores,” という曲を聞き慣れていますよね?あの歌はカリの女性は誰とでも寝ないとかなり強く唄ってますよね。彼女達をゲットするのは難しいと。一般的なコロンビアの女性の先入観を広めるのにとても良い事だと思います。あなたはそのようなこと、もしくは外国人は特権があるというような経験をしたことがありますか?



- (笑)ノーコメントです。ノーコメント。もし彼女らをゲットするのに大変でも知りませんよ。でも彼女達はたしかにキレイですよ。





- コロンビアに住む事でなにか故郷を寂しく思ったりしますか?私はあなたは食べ物は大丈夫だと思い込んでいます。



- なんだって?そうですよ。というのはそれはイギリスに関する大きな通説なのです。ロンドンに行ったら食べものはひどいです、でも私は田舎出身だし食べ物は本当に美味しいですよ。私は定期的にイギリスのマスタードとティーパックをこっそり補充するだけです。




- フィッシュ&チップスはありますか?


- いいえありません。



- あなたが観ているかは知りませんが、
 Vice TV documentary  でコロンビア北部の若い男性は性的な通過儀礼をメスのロバで行う(なぜなら、もう一度言いますが、女性をゲットするのが難しいから)というものがありました。そしていつも不思議に思っていたのは、なぜあんなにもロバに関して唄ったクンビアが多いのかということです。そこに何か関係があると思いますか?




- 私はそれに関して個人的な洞察力は持っていませんでした。でも確かに男性にそのような事があると思います。前にTVを観ていて、それは強盗に関する酷いニュースだったのですが、強盗は小さな街 la costa のサーカスを襲い、サウンドシステムやその他の物を盗んだのですが、彼らはサーカスのロバを連れてきてレイプしたという話しです。ニュースを見ていた私は、「オーケー、ほんと最悪だ、ロバよごめん、でも彼らはどうしてロバがレイプされたと知ったんだ?」というふうに思ったのでした。





- 彼らは専門家だからですよ!彼らは子供の時からロバをファックし続けているのです。



- 知らないですよ。それは噂ではないでしょうか。




- クンビアとロバのファックについても関係はどう思いますか?



- 私は costeños 達とともに良いレコーディングをしてきたけど、彼らに聞いた事はないですね。私がコメントすべきではありませんね。




- わかりました。私はあなたの評判を台無しにしたくはありません。あなたはもどって
 Frente Cumbiero とともに録音しなければなりませんね。


- それで彼らは「ねえ、彼は何て言ってた?僕らは皆ロバをファックするって?」、いやいや。



















Hot Re-Release: GRUPO 2000 + Michael Piggott Interview

http://latinfunk.org/blog/?p=914


1960年代、1970年代にペルーのアマゾン系ジャングル地域の都市や、アンデス山脈がそびえる東側の街では多くの音楽シーンが生まれました。20世紀盛んだったゴム産業のブームには、仕事を求めてアメリカ大陸や外国から(モロッコからセファルディのユダヤ人でさえ)海外へと進出した労働者が多く見られた。これは既にそこに住んでいた重要な先住民族に、控えめに言っても興味深い文化的な環境を作りました。


Los Destellos や Los Diablos Rojos のようなペルー西部のギターが主体になったクンビアや guarachas の人気は、アマゾン系のグループ(Los Mirlos や Juaneco など)に多大な影響をもたらしました。しかし、彼らが作った音楽は非常にユニークなもので、幅広いスタイルをもったものでした。

これらの失われつつあるアマゾン系のクラッシックスを追い求めているのが Michael Piggott です。彼は Light in the Attic imprint というレーベルでたくさんのペルーの珠玉をリリースし続けています(Ranil y su Conjunto Tropical, など)。彼の次のプロジェクトは「El Destape」と名付けられたギタリスト Tulio Trigoso 率いる無名のグループ Grupo 2000 のLPです。私は彼にこの最近のリイシュープロジェクトや、ペルーの60年代70年代の音楽業界、一般的なペルー盤のリイシューについてインタビューしました。



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Musica Del Alma: どのようにしてペルーの音楽に魅入られるようになったのですか?

Michael Piggott: そうですね.. まず私がなぜラテンミュージックに惹かれたを話さないといけませんね。私は世界中のパンクがとても好きで、今も好きなんですが、私の手に入れることができた7インチとは違うものをたくさん集めていたメデジンの文通相手と交換した7インチに私の心は吹き飛ばされ、コロンビアのバンドをよく聴いていました。


彼が送ってきた荷物のなかで、南米全域のパンクグループのコンピレーションがあり、それらのうちいくつかのバンドがペルーのものでした。それでペルーのパンクを集めるようになり、友達( tunchi / http://limafotolibre.com/ )と仲良くなり、もし Los Saicos が聴いたことなければ、Los Saicos と他の60~70年代のグループを詰めたミックステープをたくさん送ってくれました。


そして Los Saicos に関するリサーチが始まりました。私は誰かに2枚の45回転を注文し、一ヶ月後たっても何も届かなく騙されたと思っていましたが、ある日2枚のシングルと Paco Zambrano のLPが届きました。私はそれを聞き「これは一体誰?」と思い、ペルーから来たトロピカルなグルーヴに深くはまって行きました。




MDA: あなたのアンテナにひっかかった最初のアマゾン系アーティスト/グループはなんですか?それとそれらの最初の印象は?

MP: 私が買った最初の45回転とLPは Juaneco と Los Mirlos でした。当時はまだよくわかっていなくてリマのバンドに注目していました。最初のグループは私にもっとアマゾン・クンビアを掘りたくさせた Los Wemblers でした。彼らはとてもユニークなサウンドで、彼らの Sono Radio では Enrique Lynch  とともに活動していて SELVA がどのような音になるのかの決め手を担っていました。IEMPSA レーベルは素晴らしい曲をたくさんレコーディングしていますが、Sono Radio のものほどいいものではありません。




MDA: このシーンにおいてプロデューサーやレーベルで重要だったのは何ですか?またもしあるとすれば音楽の面でアマゾン内での地域差は、何でしたか?


MP: はい。主なレーベルは El Virrey、INFOPESA、IEMPSA、DINSA でした。しかしこれらのレーベルと同じようにアマゾンの素晴らしいレコードを作っていた小さいレーベルもありました。Discos Universal のようなレーベルは素晴らしい無名のバンドを多くリリースしていたし、バンド自身によってレーベルが作られたりしていました。私は Phil Spector や Joe Meek 、またはそれに類するようなスタジオの音を方向付ける特定の人が存在していたとは思っていません。それに近い二人は Enrique Lynch と Luis Temple のプロデューサー/エンジニアだと思います。例えばウカヤリ川の Pucallpa から出てきて多くの MASHA と呼ばれる Shipibo の歌を歌った Juaneco のような地域的な特性は YouTube などで見ることができます。


Tingo Maria や Tarapoto のような地名はとても有名な Pandilla と呼ばれる音楽スタイルになり、Huayno の風味が加わっています。ペルーやアマゾンには多くの違った音楽スタイルがあり、いまだに研究や記録されていないものもあります。






MDA: 素晴らしいですね。その地域にレコーディングスタジオやプレス所があったのですか?もしそうでなければ、どうしてペルーのアマゾンでこのような音楽が多く生まれ、高いクオリティーでありえたのでしょうか?


MP: 私の知る限り、アマゾンにはレコーディングスタジオはなかったと思います。それはプレス所も同様です。これらはほとんどすべてリマで行われていたことであって、バンドはほとんどの時間をリマに移動するバスや飛行機で費やしていたと思います。多くの場合バンドのフルメンバーではなくおそらく3人くらいがリマに行き、そこでレーベルが持っていたスタジオミュージシャンと演奏していたのだろうと思います。


多くの場合これらのセッションは急いで行われ、それが結果的にファンキーで素晴らしい物になったのです。Grupo 2000 のLPの場合、バンドのフルメンバーにスタジオミュージシャンが加わり、エネルギッシュで思慮深い音になっていると思います。当時リマにはスタジオに併設されてレコードのプレス所があったのだと思います。もしペルーのアマゾンの一番大きな都市、イキトスでそれが起こっていたのなら、私の知識はなんの為にもならなかったと思います。





MDA: 私はこのLPの音楽的なスタイルの多様性に驚いています。ジャジーな (“El Destape a Los 2000”)からヘビーなラテンサイケの (“Notas de Colores”)まで。あなたの Tulio Trigoso とのディスカッションの中で、彼のうけた大きな影響などは聞きましたか?このクオリティはほんとうに素晴らしいです。



MP: Tulio のギターへの2つの大きな影響は、Enrique Delgado (LOS DESTELLOS) とカルロス・サンタナだったと正確に述べていました。そしてアマゾンの Pandilla 音楽にも影響を受けていると言っていました。ブラスについても聞きましたが、彼はどこかに行っちゃいました。ははは..




“El Destape a Los 2000″


“Notas de Colores”



MDA: LPのなかで好きな曲はなんですか。またそれは何故ですか?

MP: 12曲目の “Denisth” はとてもよく聴いています。それは以前の曲に全ての違うスタイルを合体させて、ひとつに包んだような曲です。LPの全曲は私にとって傑作であり、みんなに見つけて欲しいし理解してもらいたいです。


“Denisth”



MDA: このLP意外に Grupo 2000 はレコードを作っていますか?

MP:  これが彼らの唯一の録音です。これらの曲のうちいくつかは45回転のシングルになり、DO RE MI (El Virrey) のコンピレーションに収録されましたが、Tulio はこの INFOPESA と協力した LPのあとレーベルを離れ、名前を SONIDO 2000 に変えて多くの素晴らしい作品をレコーディングして今でもそこにいます。彼は66歳です!





MDA: 他のリイシューの作品はありますか?(差し支えない範囲で)

MP: 10月に出る3つの7インチのセットがあります。そのうち2つはリイシューでもう一つは今年の5月に録音した新しいバンドです。今のところそんな感じです。





MDA: レコードに関して聞きたかったことがありました。特定のレーベルによって最近行われているペルー盤の ”リイシュー” に関して知っていますか? ”他の” レーベルとどのように区別して、リイシューすることに関してアプローチしていきますか?



MP: 私は人々がかつて見たことがない、彼らの心を開かせる新しいグルーヴのようなものを選択することが非常に重要だと思っています。例えば、LOS DESTELLOS はペルーのクンビアの歴史の中でも最も多くの作品を残し、バックカタログを持つグループのうちの一つです。しかしそれらは既に livier Conan と Vampi Soul によって手がけられており、人々によって「彼らは革新的で素晴らしいバンドだ」として絶賛されています。


しかし、もしリスクを背負わなければならなかったり、あなたの心を掴んだ何かをリリースしなければならなかったりという事実は、早く売らないといけないということです。というのは他の誰かがリリースして成功を納めてしまうからです。私たちはこのプロジェクトにかけたお金をバックさせたいと思ってはいますが、Mystic Tide や The Golden Dawn のようなグループに比べて、ビートルズのようなレコードをリリースするようなつまらないものになってしまいます。誰かが私に言ったことがありました。「人生はリスクを背負ったボールのようなものだよ!」


私は心の奥底ではリリースを続けようと思っています。バンドと連絡を取り、彼らに何が起こっているかを知らせることも重要だと考えています。これらのバンドは当時のレーベルからは正当な評価を受けてはいませんでした。もし何かをリイシューするときにこの点を考えることが重要だと思います。そんなところでしょうか。



MDA: アドバイスありがとうございます。最後にあなとの好きなペルー人のミュージシャンは誰ですか? また、それは何故ですか?

MP: それはとても難しい質問ですね。いろいろな理由で掘り当てたたくさんものがりますので、この質問に答えるのをためらってしまいます...



MDA: 同意します!ありがとうございますMikeさん。次のプロジェクトも楽しみにしております。









LOS DESTELLOS – Constelaciòn LP, reissue by Secret Stash Records




LOS DESTELLOS – Constelaciòn LP, reissue by Secret Stash Records














バンドメンバー:

Written-By, Guitar – Enrique “Enrico” Delgado
Banjo – Humberto Cavcho
Guitar – Fernando Quiroz
Timbales – Cesar Arias
Vocals – Oswaldo Ortega & Willy Sevillano

(Odeon – Iempsa,1971)


Enrique Delgado Montes (
1939年ペルーのリマ市生まれ。1996年3月21日没)はペルーのシンガーソングライターです。彼の両親は Ruperto Delgado と Asunción Montes で、幼少期に音楽を学んだ Rimac 地区で過ごしました。


Los Destellos は1966年に結成さました。彼らはクンビアにサイケデリックなギターを持ち込み、ペルーのアンデス系のフォルクローレ、アフロペルーの曲、ロックなどの要素を組み合わせることに特徴がありました。


1968年にクンビアの世界にエレクトリックサウンドが導入され始めました。このような交雑の要因はゴッドファーザーと称される Enrique Delgado Montes によるものでした。彼は Los Destellos のメンバーとして45回転 のレコード(‘El avispón’ / ‘La malvada’) と同名のLPで演奏しています。

彼の曲は驚くべき音楽的なフージョンと時間の融合で構成されています。キューバ音楽とサイケデリックな音楽を合体したり、アンデスやアマゾンの音楽を探求したり、クレオールのギターを Huayno のメロディーや激しいファズの音色や強烈なディストーションペダルでデジタライズさせました。









現在聴くことのできるコンピレーションを発表しているレーベルでも同様に、Los Mirlosや、Juaneco、Wembler’s の曲のカバーはそれほど多くはされていません。それは決まったシングル(個人の)リリースから始まったのにもかかわらず、それらはとても美しいものであり、おそらくリリースされた年には国際的なベンダーからは無視されて、忘れ去られていた曲を提供してくれたレーベルに、私たちは感謝しています。バンドの変遷を理解するのにディスコグラフィはとても重要になります。何年も一緒に演奏することで得られる音楽の多様性もです。




この「Constelaciòn」は Los Destellos の物語を語り、一人の男と傑出したバンドの支援を受けて象徴的なサウンドになっています。クンビアのフュージョンはLP “Onsta La herbita” から始まりました。聴いてみてください。そのトラックの一つは、ひとつの曲のなかで、異なったジャンルを多様にも融合させ、バンドはペルー音楽の革命の柱になりました。音楽は時代を超えて、Los Destellos が達成した確かなものや魂です。




すべてのペルーのクンビアのアイコンや既に出会ったことのあるバンドを、自分自身で好奇心を持ち、発見してみてください。




Renz De Madrugada





1966年のデビューシングル
“El Gatito” のリリース後、1971年に「Constelaciòn」で頂点に達し、Delgado はバンドをもっと実験的な方向へプッシュし続けました。

今では「Constelaciòn」のLPは南アメリカでコレクターズアイテムとして最も知られています。eBay や discog のようなサイトではボロボロのカバーでも上位人気を占めています。Los Destello の超希少な傑作の最初のリイシューをアナウンスすることに Secret Stash はとても感激しています。どれも私たちの工場で手作業で組み立てられており、手書きのナンバリング、MP3のダウンロードカードが含まれており、ジッパーのついた袋に入れられています。






Eric Foss (Secret Stash Records)

http://secretstashrecords.com/