2011年11月16日水曜日

Quantic Really Digs Colombia



Quantic Really Digs Colombia


DJでありプロデユーサー、キュレーターであり並外れたディガー。クアンティックは現在進行形の最大のラテン音楽家の一人であるが、彼はラティーノではありません。イギリスの田舎に生まれ、彼は2007年頃までソウルフルでダウンテンポなエレクトロニカをプロデュースして最初の10年間とても優れたキャリアを作った後、突然ラテン寄りに転向しました。


 “Mi Swing Es Tropical,” という曲、彼が Nickodemus と Candela Allstars と一緒にプエルトリコで行ったものは大きなブレイクスルーを引き起こしました。彼のアーティストとしての発展の新しいフェーズの起点に非常にふさわしいものです。またそれは、彼をラテン音楽漬けにし、コロンビアに移住までさせるきっかけとなりました。

このクアンティックのベストともいえるコンピレーション(Tru Thoughtsからリリース)を記念して、
Quantic(Will Holland ) をサンフランシスコまで訪れ、ショーの前に少しおしゃべりする時間をもらいました。







- 最初にラテン音楽を聴き始めたきっかけは何ですか?


- それはプエルトリコでのことでした。
Nickodemus に Candela Allstars のところで録音しないかと招待されました。それがラテン音楽に触れた最初のきっかけです。私はそれまでにたくさんの音楽を聴いていたし、多くのレコードも買っていました。しかし、それが実際にミュージシャンと交流した最初の出来事で、非常にクールで興味深いものでした。でも私にとってはレコードがすべてでした。レコードを掘る事に常に興味がありました。





-
 レコード堀りがあなたをコロンビアに連れていったきっかけだったのですか?どこに滞在していましたか?


- はい、私はとても Ray Pérez y と Dementes に入れあげていました。これらのレコードはベネズエラのもので、Afredito Linares もペルーのもので.. これらのレコードは全て、カリ周辺にシーンが展開されていました。多くの人はこれらのレコードではカリについて叫んでいるのだと思っています。というのもカリは70年代のサルサの大きなメッカであり遊びに行くスポットだったからです。


そして私の友人 Beto (Soundway Records’ Roberto Gyemant) は重いレコードの買い物になると断言し、実際にそうなりました。とても面白く、別世界のようでした。ファンクや、レゲエのレコードを探スことから始まり、それはまるで新しい宇宙のようであり音楽的な発見でした。


私は ”掘る” という言葉が時に好きではありません。というのもそれは、特定のノスタルジーを意味するのであって、おそらく現代と過去を分離してしまうからです。レコードを探すときに一部の人は、いくつかのアーティストのレコードを書いたかがる僕の友達でさえ、ストリートで同じアーティストが演奏していたのに誰も彼らに話しかけようとしません。




- そのシーンではありませんが、あなたの音楽にはノスタルジックな側面も存在していますよね。なぜならあなたは常に60年代や70年代の審美眼にアプローチしているような音ですよね?



- ええ、確かに。あなたはその時代の全てが最高の状態だったことを理解していますね。それは車のようなものでジャガーなどの車が可能性を持っていた時代、それらは美しく、手で設計されていたからでした。それが音楽にも同じように起こったのです。フェンダーのギターをを持っていたとします。人はこの素晴らしい楽器を作り、そのスタイルから外れた若い人達がいて、レコード業界は可能性があるかぎり本当にトップでありえたのだと思います。




- 当時間違いなくクリエイティブな頂点があったのだと。


- 全くその通りです。でも私は「おお、今っぽくない..
」というようなノスタルジックな感覚にはなりたくありません。なぜならそれは別のことだからです。たくさんの人がいるを想像しなければいけません。70年代にはその業界に入り込む間口は広かったように見えるし、いあはただその機会が無いだけだと思います。今ではシンガーソングライターとして認められていない多くの才能を持った人がいると思います。彼らは Marc Anthony のように歌わないし、彼らは見つけてもらおうとは思っていないのです。数千枚売り上げる可能性があることを証明できない限り。



- 最近、古いラテン音楽のディガーやプロデューサーの興味に
大きな変化が起こりましたが、それはあなたには起こらなかった。それは単に、ファンクやソウルのブレイクビーツのサンプルとして起こったのだと思いますか?レコード箱はたくさん掘られすぎて、他の場所を探す必要が迫られてきたのでしょうか?

- 基本的にそれは終わりに近づいてきて、また前進に向かっていると思っています。新亜kしなければならないし、同じ古いもので在り続けるわけにもいきません。ファンクやソウルもほんとにエイミー・ワインハウスや
、シャロン・ジョーンズのようにコマーシャルになってしまいました。みんながそれに飽きてきて「よし、他のことをしよう。」と大きな事になったのです。私自身、個人的には「何がブレイクビーツ?」と思い始める程、ブレイクはそんなに探されていますか?boom-bap のようになるだけですか?それはブレイクですか?ブレイクビーツはコンゴ音楽に成り得ますか?ただのアメリカのファンクより、リズムを探すことなのです。




- 最近のコロンビアへの世界的な関心のブームについてはどう思いますか?それは突然、つい2年くらい前から世界中で、特にヨーロッパ、アメリカ合衆国で、長い間無視されてきた、素晴らしい
コロンビア音楽が発見されてきましたが。

- はい、なぜだか私にもわかりません。私はそれらが無視されてきたとは思っていません。
Carlos Vives や小さなワールドミュージックのサークルの交流を除いて、70~80年代、90年代でさえコロンビアの音楽は本当に海外に流通するのが大変でした。それは別のことでした。ワールドミュージックのシーンはそんな恩恵も受けず、para planchar のようにソフトになっていったのでした。


私はひとつの鍵はインターネットにあると思います。コロンビアの情報がわかるようになり、音楽が聴かれるようになったのです。





- でもヨーロッパのレコードレーベルが、
このような古いコロンビアの音楽をリイシューすることはどうでしょうか?あなたは個人的にたくさんのコンピレーションのキュレーションに関わって来ました。そして特にコロンビアに対する関心は否定できないと思います。この10年間そのようなことは起こらなく、おそらくブラジルにフォーカスしていましたよね。

- はい、ほんとうにそれはそうです。たしかにイギリスでよく起こっていたと思います。ブラジルに対してもそれらの動きはいまだあると思います。なぜかはわかりません。たぶん世界がそれに対応してきたのだと思います。それまでは準備できていなかったのだと。多分聞いたことですが。



私は7~8年前、その時は理解していなかったけどコロンビアのレコードを持っていました。でもあまり興味がわかなかった。今は聴くようになり、違った解釈ができるようになって、とても好きになりました。人間の聴覚は、ただ心理的で、同じものを聴いても解釈が異なるのです。








- 新しいクンビア(
ñu-cumbia)の流行についてどう思いますか?


- かっこいいと思います。いわゆる爆発的に流行するもののように、大きな変化がありたくさんのいい作品があります。Andrés Landero や Los Gaiteros をサンプリングする人が多くいて、それらは素晴らしいと思います。しかしほんとに多くのコロンビアのミュージシャンは、いまだにそのようなスタイルで演奏することができるのです。コロンビアの民謡は、一般的に言われるように gaitas や cumbias のように100年前から変わっていません。


新しいマッシュアップを聴くとよく、オリジナルがいいのになぜそうする必要があるのかと思ったりもします。アメリカ人に受け入れられる為にどうして古いレコードにビートを足す必要があるのでしょうか?それは何故か?そんなの必要ありません。みんなそれがどんなものが受け入れられているかを学ぶ必要があると思います。





- ヨーロッパ人が興味を持つコロンビアの音楽と、コロンビア人が興味を持つコロンビアの音楽に違いはあると思いますか?



- そこは面白いポイントだと思います。それは確実にあります。広いギャップのようなものです。それは外国にいるイギリス人、外国にいるアルゼンチン人のようなものです。故郷を思い出させる有名なアルゼンチンのヒット曲だけに興味がある人がいて、彼らは中心から離れたものには興味を持っていないのです。確かに外国にいるコロンビア人やラティーノは一般的にノスタルジーを持っているが、彼らはサルサを聞きたがり、これらの無名なものは聞きたがりません。それと同じ事です。


私がコロンビアにレコードを買いに行ってクンビアやレアなを Fruko のレコードを探していて、セールスマンが私に、「この70年代の英国ロックのレコードを見てください」というようなものです。というのも彼らは私でさえ知らないようなイギリスの70年代のロックにとても感謝の気持ちを持っているからです。





- あなたがコロンビアに着いたとき、若者の平均的な感覚はクンビアやそのルーツよりもヨーロッパやアメリカの音楽の方に興味があるということはショックでしたか?


- コロンビア人は真っ先に外からやってくるものに価値を見いだし認めていくという事です。そして誰かが外国からやってきて彼らの音楽を演奏しても、そこに価値を見いだし、その国に関心が湧くのです。それは奇妙な現象です。完全に植民地以降の現象です。これに関して論文すら書けそうです。






- 私の考えでは ñu-cumbia は全て、メキシコやアルゼンチンを発端とした動向で、外国人が最初に関心を示したのはそこだったのではないかと思っています。


- クンビアに伴う危険は、それはバズワードのようになる事です。クンビア.. クンビア... でもクンビアである必要のないものも多くあります。アルゼンチンのものはたくさんあります。多くのものは素晴らしいですが、全然クンビアではないものも沢山あります。それはレゲエだったり、ダブステップだったり。





güiro(ギロ)のループが入っていさえすれば、何でもクンビアとみなされると。


- その通りです。そして私たちが忘れてはならないことは、アフリカのドラムパターンの重要性でもあります。彼らにとってそれは話し言葉のようであり、コロンビアの Costeños はそのように聴こえます。それは彼らが話すためのパターンでもあります。だからアルゼンチンのクンビアを聞いたら、彼らはただただ不思議に思う事でしょう。私が海沿い出身の太っちょ男 Aníbal Velázquez のように演奏したら、彼らは混乱してしまうでしょう。全然違うも感じですからね。




- しかしそれがクンビアが違った方向に進化し、違った方法でそれぞれの国の文化にどうかしていった要因でもありますよね。



- 全くその通りです。とても美しいですよね。悪い事ではないと思います。



- 私のブログにコメントを残した誰かが言ってたのですが、あなたと Frente Cumbiero はメデジンの Discos Fuentes のスタジオで一緒にプロジェクトの録音を行おうとしてるとか。私はそれを聞いてチビりそうになりました。


- はい(笑)。私たちはブリティッシュカウンシルのファンドを取る事ができました。それはまだ何をすべきか準備中ですが、でも2〜3週間 Fuentes を借りることになっています。そこへは何回も行った事があり、とてもかっこよく80年代にスタジオを建て直したので、ちょっと昔とは違うけど、基本的には同じコンセプトです。




- 私はあなたがまだ現役のあの時代のミュージシャン達を招くと思っていますが、どうでしょうか?



- はい。Michi Sarmiento、Afredito Linares、Aníbal Velázquez、Pedro Beltrán などの太っちょ達です。いま頼んでいます。




Tru Thoughts や Soundway からリリースする予定ですか?


- Soundwayかもしれませんね。まず終わらせないと行けません。常にギャンブルです。どのようになるかわかりませんから。良くなるといいのですが。




- あなたはカリに住んでいるので、“Las Caleñas son como las flores,” という曲を聞き慣れていますよね?あの歌はカリの女性は誰とでも寝ないとかなり強く唄ってますよね。彼女達をゲットするのは難しいと。一般的なコロンビアの女性の先入観を広めるのにとても良い事だと思います。あなたはそのようなこと、もしくは外国人は特権があるというような経験をしたことがありますか?



- (笑)ノーコメントです。ノーコメント。もし彼女らをゲットするのに大変でも知りませんよ。でも彼女達はたしかにキレイですよ。





- コロンビアに住む事でなにか故郷を寂しく思ったりしますか?私はあなたは食べ物は大丈夫だと思い込んでいます。



- なんだって?そうですよ。というのはそれはイギリスに関する大きな通説なのです。ロンドンに行ったら食べものはひどいです、でも私は田舎出身だし食べ物は本当に美味しいですよ。私は定期的にイギリスのマスタードとティーパックをこっそり補充するだけです。




- フィッシュ&チップスはありますか?


- いいえありません。



- あなたが観ているかは知りませんが、
 Vice TV documentary  でコロンビア北部の若い男性は性的な通過儀礼をメスのロバで行う(なぜなら、もう一度言いますが、女性をゲットするのが難しいから)というものがありました。そしていつも不思議に思っていたのは、なぜあんなにもロバに関して唄ったクンビアが多いのかということです。そこに何か関係があると思いますか?




- 私はそれに関して個人的な洞察力は持っていませんでした。でも確かに男性にそのような事があると思います。前にTVを観ていて、それは強盗に関する酷いニュースだったのですが、強盗は小さな街 la costa のサーカスを襲い、サウンドシステムやその他の物を盗んだのですが、彼らはサーカスのロバを連れてきてレイプしたという話しです。ニュースを見ていた私は、「オーケー、ほんと最悪だ、ロバよごめん、でも彼らはどうしてロバがレイプされたと知ったんだ?」というふうに思ったのでした。





- 彼らは専門家だからですよ!彼らは子供の時からロバをファックし続けているのです。



- 知らないですよ。それは噂ではないでしょうか。




- クンビアとロバのファックについても関係はどう思いますか?



- 私は costeños 達とともに良いレコーディングをしてきたけど、彼らに聞いた事はないですね。私がコメントすべきではありませんね。




- わかりました。私はあなたの評判を台無しにしたくはありません。あなたはもどって
 Frente Cumbiero とともに録音しなければなりませんね。


- それで彼らは「ねえ、彼は何て言ってた?僕らは皆ロバをファックするって?」、いやいや。



















Hot Re-Release: GRUPO 2000 + Michael Piggott Interview

http://latinfunk.org/blog/?p=914


1960年代、1970年代にペルーのアマゾン系ジャングル地域の都市や、アンデス山脈がそびえる東側の街では多くの音楽シーンが生まれました。20世紀盛んだったゴム産業のブームには、仕事を求めてアメリカ大陸や外国から(モロッコからセファルディのユダヤ人でさえ)海外へと進出した労働者が多く見られた。これは既にそこに住んでいた重要な先住民族に、控えめに言っても興味深い文化的な環境を作りました。


Los Destellos や Los Diablos Rojos のようなペルー西部のギターが主体になったクンビアや guarachas の人気は、アマゾン系のグループ(Los Mirlos や Juaneco など)に多大な影響をもたらしました。しかし、彼らが作った音楽は非常にユニークなもので、幅広いスタイルをもったものでした。

これらの失われつつあるアマゾン系のクラッシックスを追い求めているのが Michael Piggott です。彼は Light in the Attic imprint というレーベルでたくさんのペルーの珠玉をリリースし続けています(Ranil y su Conjunto Tropical, など)。彼の次のプロジェクトは「El Destape」と名付けられたギタリスト Tulio Trigoso 率いる無名のグループ Grupo 2000 のLPです。私は彼にこの最近のリイシュープロジェクトや、ペルーの60年代70年代の音楽業界、一般的なペルー盤のリイシューについてインタビューしました。



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Musica Del Alma: どのようにしてペルーの音楽に魅入られるようになったのですか?

Michael Piggott: そうですね.. まず私がなぜラテンミュージックに惹かれたを話さないといけませんね。私は世界中のパンクがとても好きで、今も好きなんですが、私の手に入れることができた7インチとは違うものをたくさん集めていたメデジンの文通相手と交換した7インチに私の心は吹き飛ばされ、コロンビアのバンドをよく聴いていました。


彼が送ってきた荷物のなかで、南米全域のパンクグループのコンピレーションがあり、それらのうちいくつかのバンドがペルーのものでした。それでペルーのパンクを集めるようになり、友達( tunchi / http://limafotolibre.com/ )と仲良くなり、もし Los Saicos が聴いたことなければ、Los Saicos と他の60~70年代のグループを詰めたミックステープをたくさん送ってくれました。


そして Los Saicos に関するリサーチが始まりました。私は誰かに2枚の45回転を注文し、一ヶ月後たっても何も届かなく騙されたと思っていましたが、ある日2枚のシングルと Paco Zambrano のLPが届きました。私はそれを聞き「これは一体誰?」と思い、ペルーから来たトロピカルなグルーヴに深くはまって行きました。




MDA: あなたのアンテナにひっかかった最初のアマゾン系アーティスト/グループはなんですか?それとそれらの最初の印象は?

MP: 私が買った最初の45回転とLPは Juaneco と Los Mirlos でした。当時はまだよくわかっていなくてリマのバンドに注目していました。最初のグループは私にもっとアマゾン・クンビアを掘りたくさせた Los Wemblers でした。彼らはとてもユニークなサウンドで、彼らの Sono Radio では Enrique Lynch  とともに活動していて SELVA がどのような音になるのかの決め手を担っていました。IEMPSA レーベルは素晴らしい曲をたくさんレコーディングしていますが、Sono Radio のものほどいいものではありません。




MDA: このシーンにおいてプロデューサーやレーベルで重要だったのは何ですか?またもしあるとすれば音楽の面でアマゾン内での地域差は、何でしたか?


MP: はい。主なレーベルは El Virrey、INFOPESA、IEMPSA、DINSA でした。しかしこれらのレーベルと同じようにアマゾンの素晴らしいレコードを作っていた小さいレーベルもありました。Discos Universal のようなレーベルは素晴らしい無名のバンドを多くリリースしていたし、バンド自身によってレーベルが作られたりしていました。私は Phil Spector や Joe Meek 、またはそれに類するようなスタジオの音を方向付ける特定の人が存在していたとは思っていません。それに近い二人は Enrique Lynch と Luis Temple のプロデューサー/エンジニアだと思います。例えばウカヤリ川の Pucallpa から出てきて多くの MASHA と呼ばれる Shipibo の歌を歌った Juaneco のような地域的な特性は YouTube などで見ることができます。


Tingo Maria や Tarapoto のような地名はとても有名な Pandilla と呼ばれる音楽スタイルになり、Huayno の風味が加わっています。ペルーやアマゾンには多くの違った音楽スタイルがあり、いまだに研究や記録されていないものもあります。






MDA: 素晴らしいですね。その地域にレコーディングスタジオやプレス所があったのですか?もしそうでなければ、どうしてペルーのアマゾンでこのような音楽が多く生まれ、高いクオリティーでありえたのでしょうか?


MP: 私の知る限り、アマゾンにはレコーディングスタジオはなかったと思います。それはプレス所も同様です。これらはほとんどすべてリマで行われていたことであって、バンドはほとんどの時間をリマに移動するバスや飛行機で費やしていたと思います。多くの場合バンドのフルメンバーではなくおそらく3人くらいがリマに行き、そこでレーベルが持っていたスタジオミュージシャンと演奏していたのだろうと思います。


多くの場合これらのセッションは急いで行われ、それが結果的にファンキーで素晴らしい物になったのです。Grupo 2000 のLPの場合、バンドのフルメンバーにスタジオミュージシャンが加わり、エネルギッシュで思慮深い音になっていると思います。当時リマにはスタジオに併設されてレコードのプレス所があったのだと思います。もしペルーのアマゾンの一番大きな都市、イキトスでそれが起こっていたのなら、私の知識はなんの為にもならなかったと思います。





MDA: 私はこのLPの音楽的なスタイルの多様性に驚いています。ジャジーな (“El Destape a Los 2000”)からヘビーなラテンサイケの (“Notas de Colores”)まで。あなたの Tulio Trigoso とのディスカッションの中で、彼のうけた大きな影響などは聞きましたか?このクオリティはほんとうに素晴らしいです。



MP: Tulio のギターへの2つの大きな影響は、Enrique Delgado (LOS DESTELLOS) とカルロス・サンタナだったと正確に述べていました。そしてアマゾンの Pandilla 音楽にも影響を受けていると言っていました。ブラスについても聞きましたが、彼はどこかに行っちゃいました。ははは..




“El Destape a Los 2000″


“Notas de Colores”



MDA: LPのなかで好きな曲はなんですか。またそれは何故ですか?

MP: 12曲目の “Denisth” はとてもよく聴いています。それは以前の曲に全ての違うスタイルを合体させて、ひとつに包んだような曲です。LPの全曲は私にとって傑作であり、みんなに見つけて欲しいし理解してもらいたいです。


“Denisth”



MDA: このLP意外に Grupo 2000 はレコードを作っていますか?

MP:  これが彼らの唯一の録音です。これらの曲のうちいくつかは45回転のシングルになり、DO RE MI (El Virrey) のコンピレーションに収録されましたが、Tulio はこの INFOPESA と協力した LPのあとレーベルを離れ、名前を SONIDO 2000 に変えて多くの素晴らしい作品をレコーディングして今でもそこにいます。彼は66歳です!





MDA: 他のリイシューの作品はありますか?(差し支えない範囲で)

MP: 10月に出る3つの7インチのセットがあります。そのうち2つはリイシューでもう一つは今年の5月に録音した新しいバンドです。今のところそんな感じです。





MDA: レコードに関して聞きたかったことがありました。特定のレーベルによって最近行われているペルー盤の ”リイシュー” に関して知っていますか? ”他の” レーベルとどのように区別して、リイシューすることに関してアプローチしていきますか?



MP: 私は人々がかつて見たことがない、彼らの心を開かせる新しいグルーヴのようなものを選択することが非常に重要だと思っています。例えば、LOS DESTELLOS はペルーのクンビアの歴史の中でも最も多くの作品を残し、バックカタログを持つグループのうちの一つです。しかしそれらは既に livier Conan と Vampi Soul によって手がけられており、人々によって「彼らは革新的で素晴らしいバンドだ」として絶賛されています。


しかし、もしリスクを背負わなければならなかったり、あなたの心を掴んだ何かをリリースしなければならなかったりという事実は、早く売らないといけないということです。というのは他の誰かがリリースして成功を納めてしまうからです。私たちはこのプロジェクトにかけたお金をバックさせたいと思ってはいますが、Mystic Tide や The Golden Dawn のようなグループに比べて、ビートルズのようなレコードをリリースするようなつまらないものになってしまいます。誰かが私に言ったことがありました。「人生はリスクを背負ったボールのようなものだよ!」


私は心の奥底ではリリースを続けようと思っています。バンドと連絡を取り、彼らに何が起こっているかを知らせることも重要だと考えています。これらのバンドは当時のレーベルからは正当な評価を受けてはいませんでした。もし何かをリイシューするときにこの点を考えることが重要だと思います。そんなところでしょうか。



MDA: アドバイスありがとうございます。最後にあなとの好きなペルー人のミュージシャンは誰ですか? また、それは何故ですか?

MP: それはとても難しい質問ですね。いろいろな理由で掘り当てたたくさんものがりますので、この質問に答えるのをためらってしまいます...



MDA: 同意します!ありがとうございますMikeさん。次のプロジェクトも楽しみにしております。









LOS DESTELLOS – Constelaciòn LP, reissue by Secret Stash Records




LOS DESTELLOS – Constelaciòn LP, reissue by Secret Stash Records














バンドメンバー:

Written-By, Guitar – Enrique “Enrico” Delgado
Banjo – Humberto Cavcho
Guitar – Fernando Quiroz
Timbales – Cesar Arias
Vocals – Oswaldo Ortega & Willy Sevillano

(Odeon – Iempsa,1971)


Enrique Delgado Montes (
1939年ペルーのリマ市生まれ。1996年3月21日没)はペルーのシンガーソングライターです。彼の両親は Ruperto Delgado と Asunción Montes で、幼少期に音楽を学んだ Rimac 地区で過ごしました。


Los Destellos は1966年に結成さました。彼らはクンビアにサイケデリックなギターを持ち込み、ペルーのアンデス系のフォルクローレ、アフロペルーの曲、ロックなどの要素を組み合わせることに特徴がありました。


1968年にクンビアの世界にエレクトリックサウンドが導入され始めました。このような交雑の要因はゴッドファーザーと称される Enrique Delgado Montes によるものでした。彼は Los Destellos のメンバーとして45回転 のレコード(‘El avispón’ / ‘La malvada’) と同名のLPで演奏しています。

彼の曲は驚くべき音楽的なフージョンと時間の融合で構成されています。キューバ音楽とサイケデリックな音楽を合体したり、アンデスやアマゾンの音楽を探求したり、クレオールのギターを Huayno のメロディーや激しいファズの音色や強烈なディストーションペダルでデジタライズさせました。









現在聴くことのできるコンピレーションを発表しているレーベルでも同様に、Los Mirlosや、Juaneco、Wembler’s の曲のカバーはそれほど多くはされていません。それは決まったシングル(個人の)リリースから始まったのにもかかわらず、それらはとても美しいものであり、おそらくリリースされた年には国際的なベンダーからは無視されて、忘れ去られていた曲を提供してくれたレーベルに、私たちは感謝しています。バンドの変遷を理解するのにディスコグラフィはとても重要になります。何年も一緒に演奏することで得られる音楽の多様性もです。




この「Constelaciòn」は Los Destellos の物語を語り、一人の男と傑出したバンドの支援を受けて象徴的なサウンドになっています。クンビアのフュージョンはLP “Onsta La herbita” から始まりました。聴いてみてください。そのトラックの一つは、ひとつの曲のなかで、異なったジャンルを多様にも融合させ、バンドはペルー音楽の革命の柱になりました。音楽は時代を超えて、Los Destellos が達成した確かなものや魂です。




すべてのペルーのクンビアのアイコンや既に出会ったことのあるバンドを、自分自身で好奇心を持ち、発見してみてください。




Renz De Madrugada





1966年のデビューシングル
“El Gatito” のリリース後、1971年に「Constelaciòn」で頂点に達し、Delgado はバンドをもっと実験的な方向へプッシュし続けました。

今では「Constelaciòn」のLPは南アメリカでコレクターズアイテムとして最も知られています。eBay や discog のようなサイトではボロボロのカバーでも上位人気を占めています。Los Destello の超希少な傑作の最初のリイシューをアナウンスすることに Secret Stash はとても感激しています。どれも私たちの工場で手作業で組み立てられており、手書きのナンバリング、MP3のダウンロードカードが含まれており、ジッパーのついた袋に入れられています。






Eric Foss (Secret Stash Records)

http://secretstashrecords.com/

2011年11月14日月曜日

Afro Peruvian

http://www.afropop.org/explore/style_info/ID/30/Afro%20Peruvian/







Afro Peruvian


Peru Negra
目隠しをして聴くと Afro-Peruvian の音楽はベネズエラ、キューバ、プエルトリコ、スペインと西アフリカのミックスのように聴こえる。パーカッション、擦る音、アコースティックギター、ベースにボーカル。ビジュアルを無くすと、人は残念ながらこの豪華な Afro-Peruvian のダンスと楽器の個性的な組み合わせを見逃してしまうことであろう。


植民地時代スペイン人は、ペルー全土でドラムを叩くことを禁止した。パーカッショニストでドキュメンタリー作家の Manongo Mujica はアフリカの太鼓やマリンバがかつてペルーに存在していたということを、いくつかのスペインの壁画と同様にフランス人とイギリス人によって描かれた古い絵に証拠があると説明している。


一方でコミュニケーションにおいてその使用を恐れ、観客に圧倒的な影響を与え、参加者にトランス状態のような変化を与え、カトリック教会ではまずありえない何かに、当局は麻痺していた。彼らはもはや彼らのキリスト教の教義を説くことはできなかった。彼らは「おそらく音楽、リズムと宗教はつながっている。たぶんそれは悪魔からの知らせである。」と思ったのではないだろうか。


そこで、彼らはこれらの楽器を禁止することを決めた。禁止の対象は、太鼓と皮、マリンバと他の伝統的な楽器だった。スペイン人がこれらの特定の楽器を禁止できた一方で、彼らは人間の創造性までは排除することはできなかった。奴隷たちは椅子やテーブル、農作物を運ぶための木の箱などを演奏するようになった。これらの木の箱はすぐにカホンに発展し、大きな木製の箱は、今日のペルーの国民的な楽器になった。


フラメンコのファンはおそらく伝説的なギタリスト Paco de Lucia が彼のアンサンブルでカホンと一緒に演奏しているのを知っているだろう。20年近く前に Paco de Lucia がペルーを訪れた時にスペイン大使がパーティを行った。その中の出席者に Caitro Soto がいて、彼はペルーでもトップのパーカッショニストだった。Caitro Soto は Paco de Lucia にカホンをプレゼントした。彼はギタリストの楽器における基本的な技を教え、現在 de Lucia's flamenco ensemble のスタンダードとなっている。皮肉にも、今日多くの人々はそれらの楽器をスペインのものだと思っている。それは100%ペルーのものなのだ。






他のペルーの有名な箱楽器として cajita がある。それは台形で、子供のおもちゃのびっくり箱のサイズを想像すればいいだろう。木の棒で箱を打つ間に、片手でふたを開閉する。cajita はまた、カトリックの起源を持っていた。それは教会で毎週日曜日に司祭がコレクションを収集するために使用した木製の箱から発案された。結果的にそれは、司祭が想像もしていないものになった。


多くのアフリカと南北アメリカでは、擦音楽器やシェーカーは、ひょうたんに溝をつけることや貝殻をつけることによって頻繁に作られてきた。Black Peruvians はもちろん違った伝統を持っている。彼らは quijada de burro を使う。文字通り、ロバの頭蓋骨のことだ。彼らは死んだロバから頭蓋骨を取り、乾燥させて歯を緩ませる。その後、それが手のひらで打たれるときに、すばらしい shhhhh-tshhhhhh という音を生み出すのだ。歯に沿って棒を走らせることによって擦音楽器として展開することができる。ペルーは quijada を使用している唯一の国ではないが、最も強くこの珍しい擦音楽器とシェーカーに関連付けられている場所でもある。








Festejo


その名前が示すように、これはお祭りの音楽(パーティーのためのスペイン語 "fiesta" から)である。festejo は Afro-Peruvianの音楽スタイルのなかで最も面白い。ボーカリストの Susana Baca の festejo の研究はペルーの奴隷時代にまで遡る。


「ペルーの独立と奴隷制の廃止後」
彼女は説明する。
「かつて奴隷だった人々は、歴史のその記憶を消し去るために、彼らの人生のうちのその部分をただ忘れたかったのです。そのような経験をして生きてきたことがある人々誰もがその理由を理解できると思います。記憶を消すことは、メロディーを消し、歌を消し、ダンスを消し、そして伝統そのものを消すことを意味します。20世紀初頭には、アフリカの子孫である彼/彼女達が奴隷の歌を覚えていれば、聞くこともできた時代があった。覚えていないと言うかもしれないが、彼らは覚えているのである。この答えが全てです。奴隷制度が直面していることです。


Baca は Agusto Asquez (19世紀に生まれ1990年代初頭まで生きた)は音楽研究の Don Jose Duran のインタビューの中で festejo の伝統的な側面を追跡した。Asquez はfestejo を男の競争であったと説明した。それは男同士の対立であり、戦いのリズムの連続であると。男たちはカホンをこのブラジルのかぽえらを想起させる音楽のコンペティションに持ち込んだ。


今日では festejo の踊りはより密接にそれらの名称を反映している。その動きは非常に官能的で起伏がある。身体はリズムに正確に動く。すべての音は身体によって動きをトリガーされる。ダンサーは、この官能的なコミュニケーションでカホンや他の楽器のそれぞれの打音に従う。








Lando


ペルーを代表するミュージシャンの一人 Nicomedes Santa Cruz は lando の期限に関する研究を多く行なっている。彼は、その起源は、奴隷がアンゴラからブラジルに到着したときに"londu"と呼ばれるアンゴラのダンスからのものであることを説明している。今日でさえ"londu"はブラジルに存在する。ペルーの lando は黒人系ペルーの音楽(キューバのソンからブラジルのサンバまで)に関連付けられている。それはほとんどブラック・ペルーとしての音になったとも言える。lando はスペインとアフリカの両方のリズムのミックスである。これらのスロー~ミドルテンポのバラードは"Samba Malato" のようにペルーの国歌にもなっている。








Toro Mata


"Toro Mata" は "The Bull Kills." という意味だ。アフロペルー音楽の国歌があった場合、それは Toro Mata だろう。Carlos "Caitro" Soto de la Colina は1970年代初頭、cajonero Chocolate や Lucila Campos と並び Peru Negro の伝説的なラインアップのメンバーであった。De la Colina は。彼の幼児期における"Toro Mata"を聴いていたことを記憶している。彼のヴァージョンは、もともと1973年にPeru Negro によってレコーディングされ国内で流されていた。今ではこの曲なしにアフロペルーのコンサートに行くのは殆ど不可能である。シンガーであり研究者でもある Susana Baca はペルー各地で高齢者によって歌われる"Toro Mata"に違うヴァージョンがあることを発見した。それは恐ろしい牛の代わりにペルーとチリの間の古い紛争の脅威に関するものも含んでいる。別のヴァージョンでは残忍なスペイン人の将校についても歌っている。Baca  はハーモニカを伴った競争を反映した詩が歌われる"Toro Mata"の古いヴァージョンもあると説明してる。"Toro Mata"はただの歌ではなく、国家であり、ペルーの音楽において確かにサブジャンル全体を指しているのである。








The Alcatraz


Alacatraz は世界で最も異性の気を引こうとする官能的な踊りの一つ、そしてユーモアの驚くべきセンスを持つ踊りである。これはカップルのためのダンスだ。伝統的に、女性は男性がろうそくを持って踊っている間に、薄い紙を背中に持つ。もし男性が女性の火をつける出来れば彼女は彼のものになる。それはPeru Negro(アフロ系ペルー音楽の主要なグループ)の最も壮観な場面のひとつでもある。彼らはリマのManos Morenosにある高級ナイトクラブで、ほとんどの毎週末上演している。彼らのAlcatrazには6人のダンサーがいる。(3つのカップル)それぞれのダンサーは赤い薄い紙を彼女らの足の間につけ、ろうそくも持っている。ダンサーたちは白いドレスを着て、女性は短く白いスカートを履く。彼女らは火を付けられるのを避けながらお尻を揺らし、激しく揺れて旋回していきます。最終的に成功したダンサーのうち一人と、"燃えるダンサー"は床に崩れ落ち制御不能になるまで、ぐるぐる回って幕の外に消える。言うまでもなく、Alacatraz は奴隷時代に植民地当局によって”不道徳である”として禁止されていた。しかし結果的にこのエネルギッシュでエキサイティングなダンス、そして危険な感覚は本当のペルー人の経験なのである。








Furruco

http://parrandavenezuela.blogspot.com/2007/05/what-is-furruco.html



Furrucoとは?

Sandra (percussion), Enrique (FURRUCO) and Pucho (tambora)


Sofia と Mariana は Parranda Venezuela の furruqueras もしくは furruco 演奏家です。次に来る機会があれば彼らに注目してみてください。彼らはたとえお互いの部屋を横切っていても、演奏するときには目配せをしてぴったりとお互いのコミュニケーションを図ります。

通常彼らはすべての曲を演奏するので、腕に非常に負担がかかり、しばしば手に水ぶくれを作ったりします。それだけでなく、他のみんなが休憩するときも彼らは楽器をガードしないといけません。というのも、皆 furruco について知りたがり、触りたがるからです。ただ手で棒をこするだけだと思われていますが、実際には棒は繊細に扱わないといけないのです。棒は折れやすく、正しく演奏されないと furro の皮に刺さったりします。


furruco はベネスエラの民族楽器です。一般的にはフリクションドラムとして説明されます。この楽器は魅惑的な起源を持っていて、世界中にそのバリエーションが存在しています。これらの全ては儀式的なもの(ほぼ音楽としての)が起源となっています。

Grove の辞書にはフリクションドラムの魅力は「その音のキャラクターはこの世のものではない」とそれは轟音だったとして記述されています。その理由は、マヤ文化の中でジャガーに関連付けられており、サハラ以南のアフリカの文化ではライオンやヒョウに関連付けられていました。アフリカでのフリクションドラムのバリエーションは、コンゴ(dingwinti)のバンツー人(ngoma)や Zulu (ingungu)の間で知られています。フリクションドラムはまた、スペイン(zambomba)、ポルトガル(sarronca)、フランス(toulouhou)、トルコ(kaplan kabagi)、ギリシャ(mourgrinára)とイタリア(PU- TI- PU)のような様々なヨーロッパの楽器にも発展しました。


ヨーロッパでフリクションドラムは特にクリスマスの休暇の間に使われます。それはなぜベネスエラの furruco はいわゆるクリスマス休暇固有のガイタや Aguinaldos (音楽の種類)に使われているかを説明することができます。




新しいGroveの楽器の辞書(1984)によると、フリクションドラムは「摩擦による直接、または間接的な膜鳴楽器」とあります。素晴らしい文化人類学者John A. Donahueの記事によると
http://www.mayavase.com/frictiondrum.html
「太鼓の本体は、底を抜かれた陶器製のバケツで構成されています。皮を上下に貫いた棒=革の"バチ"によって、太鼓の皮は湿らせた、または松脂を塗った手によって直接こすられます。間接的な太鼓の皮は棒の摩擦によって振動します。
とあります。


Independence Day - 5 de Julio



http://lapelanga.com/INDEPENDENCE-DAY


多くの場合、7月5日は"7月4日"の後の日として考えられています。(アメリカの独立記念日)
しかしラテンアメリカでは 5 de Julio は、スペイン植民地で最初に独立を宣言した記念日のことを指します。


その国とは、レベルな扇動家 Simon Bolivar の故郷、ベネズエラのことです。


実際の「独立」や植民地化からの解放に関する議論はさておき、この記念日は歴史的であり、素晴らしい音楽 música folklórica venezolana を共有するのによい口実となっています。特に Gaita ガイタにおいて。




このレコードは Grupo de Gaitas de Sidor による 「Los Sidoristas Cantan Gaitas 」で、ガイタの素晴らしい一例だと思います。Grupo de Gaitas de Sidor はベネスエラ最大の鉄鋼会社です。従業員による独自のレーベルを持っていたのだと思います。(この件に関して詳しい人がいたら教えて下さい。)次の曲はこのアルバムからのTamborera de Guayana です。


次は Linda Guayana です。私はこういた地方の歌が好きです。それらはまるで、旅したい場所を音楽でペイントした聴くことのできるポストカードのようなものです。




この曲の低音パーカッションも素晴らしいです。ベネスエラのガイタは furruco というまるで豚の鳴き声のようなユニークな低音を生み出すフリクションドラムを使います。この un viejo が演奏の仕方を教えている動画を見てみてください。




Happy 5 de Julio!
- posoule

2011年8月22日月曜日

Random record shopping day at Amoeba LA

http://listenrecovery.wordpress.com/2011/07/17/random-record-shopping-day-at-amoeba-la/







Random record shopping day at Amoeba LA


晴れた日曜日に、私は Amoeba に掘りに行くことにしました。
この場合はレコードを買いに行くという意味ですが・・

私は、お店のラテンコーナーを担当している、Dj Gazooo と Dj Gomes Comes Alive の二人の素晴らしい従業員に巡りあわせました。

Secret Stash や Masstropicas のような無名なペルーの音楽をリイシューしている最近のレーベルについて情報交換をしました。ワールドとラテンコーナーへと安いレコードを探しに移動しました。
レコードを探すスリルというのは、安い値段で見つけて、それが良いコンディションで予想だにしないものだったりするところにあります。それは確かに今日起こっていることで(2011年7月16日)、個人的な思いからも、心が燃え上がるようでした。

「WeatherMan」を探しているとき、同じ場所で彼らもディグしていました。私たちはお互い認識し合い、挨拶し歓迎しました。ラテンミュージックのいくつかの良い名前を交換しあい、自分の成果のうちの少しを共有しました。それらのうちの一つはポール・サイモンがプロデュースした URUBAMBA のLPです。

このレコードの写真や説明についてストーリーを語りたいと思います。







Urubamba はペルーにあるインカ最後の要塞都市のマチュピチュの麓の川の名前です。Urubambaというグループはこの開かれた川のように、国境を超えてインカの文化を運ぶためにこの名前を選びました。彼らはアルゼンチンからボリビア、ペルーを経由してエクアドルまでのアンデスの高原のメロディーやペンタトニックスケールをベースにした音楽を演奏します。


「私は1965年にパリの Thèatre de L’Est Parisienne劇場で一緒になった時からUrubamba のファンです。当時バンドは「Los Incas」と呼ばれていて、サイモンとガーファンクルと共にレコーディングした「El Condor Pasa」に名前が記されていました。1~2年後、私の初のソロアルバムの「Duncan」という曲で再度コラボレーションし、1973年の春と秋にコンサートに同行してくれました。「Kacharpari」の「live」はこのツアーの間にレコーディングされたものです。





– Paul Simon
Produced by Paul Simon
All compositions by J. Milchberg and Uña Ramos













Los Incas は Urubamba と名付けられる前のバンド名です。ボリビアやペルーで既にソロプロジェクトの録音を行っていた Uña Ramos によってプロデュースされました。「Guantanamera」は「El Condor Pasa」や「O Cangaceiro” (Samba Andina) 」、「La Bamba」が収録されているLPのタイトルです。


Produced: Various
Year Recorded: 1969
Label: Fontana Special (Brazil) / Folklore Label (Chile)









Miguel Barraza


私はTVでブルース・リーの真似をしたり、教会で酔っ払って演技するこの男と共に育ちました。Miguel “Miguelito” Barraza は、ペルーで私の世代で最もリスペクトされているコメディアンです。
今も俳優や脚本家、歌手としても活躍しています。このLPでは、その時代によってころころ変わる、80年代後期のスラングによる「ペルー人スタイル」のジョークを話す彼の才能を見せてくれます。このLPは以前リマで発見しました。


ペルーで見つけたものは破損していましたが、聴くことは出来ました。私は「このLPをまた見つけることができるか?」と自問し、自分自身に「リマでなら見つけられる」と答えました。私の幸運はLAで起こりました。値段も公開されていました。


内容は8割はコミックの朗読で、サルサのヒット曲の合間に当時のコマーシャルが入っていました。
Richie Ray やBobby Cruz (Fania Records) のようです。











Quilayupan はあるミッションのためにミュージシャンが集まったバンドです。アルゼンチンやチリ、ウルグアイといった南アメリカの過激な虐殺にプロテストすることが目的です。バンドとしてはアーティスト達の革命的なフュージョンです。それらにはVictor Jaraや、 Violeta & Angel Parra、 Mercedes Sosa など南アメリカの音楽革命のイコンが含まれています。Quilayupan は多くのLPを録音していて、すべてセルフタイトルで、番号がふられています。この素晴らしいジャケットはNo.4のアルバムです。これは彼らの録音物のコレクションの一部を形成するでしょう。







El Sonido De Tupac Amaru


このアルバムジャケットをみるとノスタルジーな気分にかられます。Light In The Attic にディストリビュートされて、Masstropicas (レーベル)から出されたペルーのコンピレーションです。


Light In The Attic は、国外にほとんど顧みられない音のために研究する音楽愛好家のニーズに応える、非常にリスペクトされているディストリビューターです。このレコードは私のDJセットの一部でもあります。 Mike Pigott (Masstropicas 創設者)がコピーを送ってくれましたが、Amoeba で見かけたときに待ちきれない気持ちになりました。


素晴らしい音楽と仕事をサポートできて嬉しいです。Masstropicas に愛を!




Renz De Madrugada