2011年4月18日月曜日

Hector Fernandez-L'Hoeste on the Cumbia Diaspora





Hector Fernandez-L’Hoeste はアトランタにあるジョージア州立ジョージア州立大学で、ラテンアメリカの文化を教えている。彼はコロンビアのバランキヤ出身でクンビアとそのアメリカ各地にもたらす影響についてよく執筆している。彼はこれからデューク大学出版から発行される「All the Cumbias」と名付けられたクンビア・ディアスポラ選集の編集者である。


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Marlon Bishop:  始めるにあたって、どうしてあなたはクンビアについて語るのですか?それはなぜ重要なのでしょうか?

Hector Fernandez-L‘Hoeste:  基本的に現時点では、クンビアはアメリカ大陸で最も人気があるジャンルだから重要なのです。アメリカ合衆国では本当にどこでもクンビア愛好者のラテン系の人々を見つける事ができます。メキシコは完全にそれにあたります。中央アメリカやパナマ、そして全てのアンデス系の国、ベネズエラ~チリに至るまで、アルゼンチンやウルグアイのような、それほど強くトロピカル音楽の伝統があると思われていない場所にでさえ、ローカルなクンビアのフォームを持っています。それはすべての場所で言えることです。いったい何故でしょうか? ひとつの理由としては、クンビアは比較的柔軟でシンプルな音楽的構造を持っていて人々に受け入れられ、少しづつ進化をし、それぞれのヴァリエーションが増えたというものです。それはクンビアの成功の秘密でもあります。


MB:  コロンビアでのクンビアの発展における背景について、少し教えていただけますか?

HFL:
  全般的に、クンビアはコロンビアのカリブ海の港町、カルタヘナで始まったとされています。コロンビアは僻地のようなもので、スペイン支配からも優先されてはいませんでした。
力の中心になる都市はありましたが、国の外で、州のような存在はほぼ完全に欠如していました。それは奴隷が、いわゆるパレンケ(メキシコの都市?)と呼ばれるような、奴隷によってルール付けられ組織された小さな街で生きるように ”主導された” ことです。
もともと、クンビアや他のアフロ-コロンビアンのリズムはそのようなコミュニティから来たものです。


20世紀のクンビアはビッグバンドの時代に影響を受けてきました。コロンビアでアメリカの文化影響が徐々に始まり、一連のミュージシャンはビッグバンドの形式に適応しようと決め、クンビアの様式を作り上げていきました。ある意味では、それはメデジンやボゴタのような異なった感性を持った、より大きな内陸都市で集客するための手段でもありました。そういったプロセスを経て、クンビアは中産階級や上流階級受け入れられました。しかし、50年代、60年代初頭には既に全国的なものになっていました。これらは主にLucho BermúdezPacho Galánを中心とするものでした。


MB:  それはクンビアが国外で人気になたのと同じ時期ですか?

HFL:  いいえ、それは全く違います。Lucho Bermúdez と Pacho Galán はツアーを少し行っていました。しかし、それは簡単に海外で受け入れられるにはあまりにも“コロンビアン”な音でした。彼らはメキシコや中央アメリカ、カリブ海諸国、アメリカ合衆国にさえ演奏旅行をしに行き知られるようになりました。しかし、後の国際的な chucu chucu(チュク チュク)スタイルのクンビアの熱狂はまだ起こりませんでした。

MB:  チュクチュク ? それはなんですか?

HFL:  説明しましょう。60年代にコロンビアで近代化の波が押し寄せました。レコーディングスタジオはクンビアがもともとつくられていた海岸沿いから、メデジンやボゴタに移動しつつあり、テクノロジーに組み込まれたプロセスの中にありました。テクノロジーが追いつくと、クンビアを作る上でより効率的な形態が生み出されました。もはやよりお金のかかる大きなバンドである必要もなくなりました。もっと小さなアンサンブルでオルガンやエレキギターを組み込む事ができたのです。

このうち、コロンビア人が最初に文字通り「ch, chchch, chchch」を発音した 
chucu chucu(チュク チュク)呼ばれた新しい種類のクンビアが生まれました。それは guacharaca グラチャカ、ギロのような擦るチューブの音です。最終的な結果は、この非常に単純なリズムでした。これは正式な学校教育なしで、ほぼ誰もが受け入れることができ、すぐに演奏出来る音です。大きな魅力ですよね。その美しさはすべて、それが最初の声を持っていない人に声を与えるということです。しかし海外沿い出身のミュージシャンは、クンビアに起こり始めていることを強く嫌っていました。

MB:  それは何故ですか? 

HFL:  トライディショナルな Toto La Momposina のようなクンビアを聴き踊り方を見ると、それほど chucu chucu とやっていないんですよね。リズムは遥かに複雑です。しかし彼らはその構造を使い、chucu chucu を発生させたような方法で進化させましたが、それは最初のアイデアではありませんでした。

MB:  でもそれは国際的に音を定義するようになった音楽だった...

HFL:  
はい。最初からマーケットに輸出できるように作られていました。国のかたちを取り、それを入れ込んだ製品として一般的なパッケージにして、海外に送る事ができるようなものでした。

でも次に撤回させてください。クンビアが海外に渡ったとき、それは労働者階級のジャンルとして解釈されました。その範囲内では文化の押しつけではなかったし、それが侵入者として解釈されたのではありません。その背景に意図はありませんでした。なぜかというと、それは基本的にコロンビアから来たもので、政治的な計画を有するラテンアメリカの文化の文脈の中で認識されていなかったからです。それは、メキシコが持っていた文化産業を持っていなく、ブラジルが持っていた拡張計画に乏しく、アルゼンチンが持っていたヨーロッパ中心主義の伝統に欠けていたからです。それは一種の、アメリカ大陸にやってくる特定のコンテクストや、侵入する事を許可したものでした。そして一度到達すると、ごく一般的に言うと、それは労働者階級が受け入れたクンビアに対応することでした。そしてすぐに考え出され、どのように地元のミュージシャンに自国のお客さんに消化させる形態を作らせるかを簡単にするものでした。
その起源は無関係でした。何が関連していたかというと、熱帯の考え方を伝えられて、そのアイデアは消費され、地元のコンテクストに順応し得たからです。少なくとも最初は、この方法でメキシコやチリやペルーのクンビア、それ以上にも以下にも知られているように、要約されたファッションのようにクンビアがアメリカ大陸を旅する方法でした。


MB:   もう少し国としての意図について説明してもらえますか?

HFL:   私たちがアメリカ合衆国で
アメリカ文化を売るように、それによって特定の意識、価値、モラルがサポートされ分散されています。メキシコも同様です。コロンビアの場合はそうではありません。コロンビアの価値観、生き方、音楽にリンクした政府に関連づけられたアイデンティティはそうではないのです。コロンビアのレーベルは彼らがクンビアを輸出したら何が起こるかという事に気がついていたのです。唯一、彼らは国民性について重視していなかったということです。すべて彼らは最下層について気を使ったのです。そしてそれは飛ぶように売れました。


MB:   最初にどこからクンビアは発信したのですか?

HFL:
   
クンビアはアンデス諸国に到着するおよそ10年ほど前に、メキシコを通過しました。コロンビアではメキシコの文化がとても重要であったことが見受けられます。メキシコにコロンビアの音楽を輸出するアイデアはとても魅力的でした。メキシコは常にラテンアメリカの文化の首都であることを忘れてはいけません。だからメキシコシティーでは常にこの大きなトロピカルバンドの需要がありました。マンボはメキシコシティーに暮らすキューバのミュージシャンにより、メキシコでつくられたものです。他の場所ではマーケットは大きくありませんでした。リマとキトは、ボゴタと同時期に都会化が進みましたが、しかしボゴタがそうなる以前に既にメキシコシティーはモンスターになっていました。だからメキシコにはオーディエンスがいて、旅行あるいはコロンビアからマーケットにむけての音楽の輸出に適していたのです。


MB:   今のメキシコのクンビアシーンについて説明していただけますか?

HFL:   はい。メキシコは、融合と雑種の温床となっています。だから若いアンサンブル、ロックバンドでさえ、見るのがとても面白いです。そして彼らはポップやアコーディオンの趣向やメキシコのポップミュージックの明瞭な底意をクンビアに取り込んでいます。しかしそれらはクンビアとして認識されているのです。メキシコで受け入れられているクンビアを特定化するのは非常に難しいです。たくさんあるからです。


MB:   わたしは特にメキシコ北部のモンテレイでのクンビアシーンに興味があります。それについて教えていただけますか?

HFL:   とりわけメキシコの北部では、クンビアのようにだけではありません。彼らはそれをコロンビアのものとして認識された、メキシコのフォームが生み出すことのできた音楽としてたくさんそのような方法で習得されたものをクンビアとして識別しました。モンテレイではそれを “musica Colombia” (コロンビアの音楽)または、“Colombia” とさえ、言われています。これは強力なメキシコの感性でコロンビアの音楽を演奏する別の方法です。最も有名な例では、Celso Piña というミュージシャンです。


MB:   それは本当に面白いですね。どうやってそのようなサブカルチャーは産まれたのですか?

HFL:   それについては多くの謂れがあります。ひとつはいつ、クンビアが到達したのかということです。それはカリブ海沿岸、中心部との強い緊張感を持った地域から始まりました。
したがってメキシコの北部 ----- メキシコシティーから独立して強いアイデンティティを持つことに誇りを持った地域、ある特定のリスペクトを欠如して国境を越えるのに適した場所、国境の北からのものを消費しやすい場所 ----- に到達した時、それら音楽の全ての要素とともに共通の調和をもたらしました。大規模な範囲で「我々も感じるように、たくさんのことを表現するのは音楽だ」と北部メキシコの人々は捉えていました。また、労働者階級のコンテクストも強くあります。音楽的な観点から言うと、メキシコはアフリカ系、カリブ系、混血系として消費されていない、もしくは見られていなく、基本的には階級のコンテクストなのです。モンテレイでは “colombias” は El Barrio から来たキッズ達であり、それは近くの労働者階級出身です。だから彼らはクンビアをアコーディオンで演奏する事ができ、受け入れる事ができるのです。


MB:   
“クンビア・ディアスポラ”の他の例はなんですか?

HFL:
   ひとつの魅力的な反復がアルゼンチンで金融危機の時期におこりました。それは 
cumbia villera クンビア・ビジェーラ と呼ばれています。通常、アルゼンチンはトロピカルな場所だとは考えられておりません。またアフリカ系の人口の多いところとも考えられておりません。ブエノスアイレスは1800年代の半ばまではアフロ-アルゼンチン系の人口は多かったのです。今ではブエノスアイレスに行けば、アフリカ系のコミュニティを見る事はできますが、それはとても小さいものです。

クンビアはブエノスアイレスの労働者階級の間に介入しましたが、 
negros (ネグロ)や “the blacks”(黒人)と呼ばれるアルゼンチン人(アフリカ系という意味ではなく)によって受け入れられました。その言葉はただ貧しい労働者を指します。“black” というラベルが意味するところは、とても人種差別的なやりかたで、黒人や貧しいアフリカ系の人々はより低い社会に属していると考えられていました。もし誰かが強い労働者階級のアイデンティティを受け入れて、彼らがその遺産を誇りに思っていることを立証すのるなら、negros と呼んだりレッテルを貼ることができたでしょう。これらの negros はクンビアを受け入れたのです。

MB:   これらの音楽は金融危機にどのように関係しましたか?


HFL:  
クンビアビジェーラはアルゼンチン経済の破綻後に現れました。いきなり、大部分のアルゼンチンの人々はもはや中流階級とみなされる一方、いきなり、貧しいものとみなされました。ここで新しい感性に取り組んだ文化が生まれました。
Villera はテーマやトピック、新しいリアリティに取り組みました。彼らは強盗や明示的なセクシャルな歌詞、ドラッグについて唄っており、アルゼンチンではそのようなものは今までありませんでした。

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MB: Villera,  それはもちろんブエノスアイレス周辺の貧民街やスラムのことですか...



HFL:  はい。Villera はアルゼンチンをつくりました。初めての多くのケースで、貧しいブエノスアイレス周辺のスラムを扱う事を好まない現実は何か対処しないといけないです。彼らも、それは別のアルゼンチンで別の問題であるとして、認めたくないのです。だからそういった規模の cumbia villera は文化のプロダクトとしてとても重要なのです。

The cheto と呼ばれるブエノスアイレスの下町からきた中流階級は、スラムのキッズ達からは彼や彼女側の社会全体や政府の体制と見られています。そして、スラム街のキッズ達は正当なものとしてその法的秩序を見ていなく、その背景に何かあると感じています。彼らは国家秩序を、法律を破る事と、貧しい世代から略奪をルールづけることの違いの認識の失敗を、本質的に壊れた何かだと思っています。彼らはただその違いを見ていません。アルゼンチン人としてもそれは法律を侵害する彼らの権利と、過去に行われたより高い特権のセクターの整備を軽視しています。だから彼らは cumbia villera で表現しようとしているのです。


MB:   コロンビアに戻ると、今クンビアには何が起こっていますか?


HFL:  クンビアに関する面白い点はさきほども言ったように、様々に順応するフレキシブルさだと思います。今そこではアフロ-コロンビアンのルーツを見直したたくさんのバンドが居て現代の音楽に取り入れています。例えば、Bomba Estereo は米国でさえ売られ始めています。彼らは田舎から来たコロンビア人のアイデンティティをほのめかす音楽をトレースし、若い世代にアピールするように演奏し、アフリカのコンテンツを強調しています。
バジェナートのスター Carlos Vives が10年前にやった事とは違います。 Carlos Vives はクンビアを使いました。それは既に海岸から内陸部へと、白人文化となるプロセスを経ていました。そして彼はそこにロックの感性が組み込まれていたのでさらに白人化がすすんだのです。これらの新しいバンドについてはアフリカの伝統へと立ち返り述べました。現代の感覚と新しい楽器でありながらも彼らは、アフリカの伝統を強調したのです。


MB:   ここで大事な事はなんですか?クンビアのストーリーは私たちに何を教えてくれますか?


HFL:   クンビアは、表現とは別の意味として国家秩序に見捨てられ続けている社会の一部分のストーリーだということを言わなければならないと思います。それら全ての見捨てられた人々は国としてあるべき別の方法を祝福しようとしているし、それは必ずしも政府を介さなくてもよい、これは私の考えです。そしてコロンビアのケースでそれが起こったのと同じように、
それ以降の全てのクンビアは、国内のエリートや政府によって軽蔑視された場所から発生しました。それは皮肉にも全国に広がりました。だから、クンビアは他の地方やラテンアメリカの一角で産まれているのです。






Mario Galeano Toro by Marc Nasdor



Mario Galeano Toro(FRENTE CUMBIERO)

issue in BOMB Magazine

(元記事: http://bombsite.com/issues/110/articles/3377 )


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Photo by Juan Felipe Rubio.




木曜日の夜にロウワーマンハッタンの Santos Party House で、Uproot Andy と Geko Jones がホストを務めるマンスリーパーティー “Que Bajo?!”。コロンビアン-メキシカンのフォークソングやスタンダードなテクノの奇怪なミックスを、ソニデロDJが爆音でかけるクイーンズのクラブでは、ほとんどのニューヨーカーが気づかずに過ごしてしまった急増する音楽のシーンの一角を垣間見ることができる。クンビアのパーティーへの道を見つける流行に敏感なアメリカ人はそれほど多くいない。


しかし、ブエノスアイレスの混みあったクラブで行われている Zizek Collective (ZZK)のパーティーでは、若い Porteño* は凝り固まったヨーロッパ中心主義のタンゴは認めず、アメリカの田舎者に受け入れられた一昔前のヒップホップのようにルーツ・ベースの電子クンビアに群れをなす。貧民層や農村部、より最近の中産階級から生まれたポピュラー音楽と同様に、クンビアはその源流を抹消すること無く実験されることを許されている。そのルーツはコロンビアの海岸沿いを起源とする音楽とダンスの両方にある。その広がりは50年代から始まり、ラテンアメリカの変異は中でも特に、ペルーのチーチャや、アルゼンチンのビジェーラ、メキシコのソニデラ等が出現してきた。クンビアでは文脈がすべてだ。南米とメキシコの音楽業界の大部分は、一般的な“英語化された”ロックによってそれ自体を非特徴化し続けている。いくつかの革新的なミュージシャンや、プロデューサー、DJは、何がラテンオルタナティブミュージックを構成しているのかという継続的な議論を静かに(まだうるさく)舵取りしつづけている。


*Porteñoとは


Ch-ch-CH  (レゲトンの THUM-th-thum-thum とは対照的に)は、ゆっくりながらも決定的に拡大を続けていく新しいクンビアの、絶えずモーフィングしていくサウンドを表している。guacharaca* とウッドブロックの最小限の“こすり”と叩くことによってジャンルづけられたクンビアは、たくさんの新しい音楽のための白いキャンバスとなると言っても過言ではないだろう。
クンビアの形式の揃いは----- 最も伝統的であり民族的、エレクトリック・ダンス、ポルノに近いスラム街のヴィジェーラ・ラップ、またはダビーなリミックスなどは、爆発的にグローバルになっており、いまだアンダーグラウンドではあるが北部やコロンビアにも拡がっている。





ボゴタのバンド Frente Cumbiero のリーダーである Mario Galeano Toro は、そのアフロ〜カリビアンを起源とした現代の電子的な兆候から、クンビアの多彩な歴史に精通している。彼はあらゆる方角に向けてクンビアを広めているプロデューサーの一人だ。彼の多くの仲間がバジェナートのようなライバルを支持することを見捨てて、音楽をしっかりサポートしている。Galeano はヨーロッパや他の地域で様々な視聴者自分の実験クンビアを提示しようとしFrente Cumbiero はブリティッシュカウンシルの助成のおかげ協力することができた Mad Professor のようなリミキサーと共に仕事を行っている。コロンビアのオルタナティブな音楽のシーンが再度受け入れられている状況に、Galeano はこのプロセスで、コロンビアの一般市民の間でクンビアの再普及が起こる事を望んでいる。急速に衰退していくものをデジタル化してリイシューすることを使命とした、熱心なビンテージ・クンビアのレコード・コレクター(現在ではレア)である Salgaelsol というレーベルを始めた。







Marc Nasdor あなたの最初のバンド、Ensamble Polifónico Vallenato の話から始めましょう。あれはもう10年前ですよね?


Mario Galeano Toro そうですね。Ensamble Polifónico Vallenato はたった一年半しか続かなかったのですが、ここボゴタではとても新しいアプローチでした。クンビアはカリブ海から続く沿岸の音楽であり、私たちはここボゴタの山の中にいますが非常に雰囲気の違ったものです。Ensamble Polifónico Vallenato の解散に向かってボゴタから新しい世代のミュージシャン ――― La Mojarra Eléctrica や Curupira というバンドがカリブ海の音楽を再解釈し始めました。私たちはちょうど二十歳くらいで、ただ楽しんでいました。
MN いくつかのトラックを聴いたのですが、私が期待していたよりもっと実験的、ほとんどノイズでした。
MG バジェナート(Vallenato*)はクンビアに近い従兄のようなもので、そのほとんどはメジャー(長調)コードによるものです。90年代にボゴタの全てのバスの中で安っぽい商業的なバジェナートが流れていました。ここではバスのなかはいつでも音楽が流れていますよ!だから違ったコンテキストを入れただけなんです。もちろん私たちは楽しんでいたけど、最終的には真剣に提案する―――というアイデアでした。


MN バジェナートもチャンペータ(Champeta*)に近くメジャーコードですが、チャンペータはもっと高速にできますよね。それはとても明るいものなのですが、メジャーコードはとてもハッピーな音楽になりますよね。
MG はい。チャンペータはアフリカ音楽から大きな影響を受けていますが、- スクース(Soukous*)や Highlife、ムバカンガ(Mbaqanga*) - などこれらのスタイルは全て80年代のカルタヘナやバランキヤで大きなものでした。その背景にスクースはあり、サウンドシステムを使った音楽としても主な影響があります。それは実際に海岸沿いでサウンドシステムを介して聴かれるために、そして踊るために作られています。


MN ではあなたの専門領域、クンビアの話題に移りましょう。ここニューヨークでは、クンビアに確実に興味を持ち始めているカリビアンではないオーディエンスがいます。
MG そうですね。ここ2~3年でイギリスでも同じようなことが起きています。
MN ではクンビアのリズムの条件は何なのかを話しましょう。というのもそれは Guacharaca* に非常に特徴的なものがあるからです。
MG クンビアはたくさんの異なったリズムから作曲されています。だいたい30くらいではないでしょうか。それらはクンビアと呼ばれる一つの大きなファミリーの全部分でもあるが、それぞれは独自のグルーヴを持っています。Guacharaca が奏でる ch-ch-CH というリズムは本当にあなたがクンビアを最初に聴いたときに気付いたことだと思います。
MN ときどき私は三連符の3番目の音を重点的に聴いていて、ほかの曲では最初の音符に重点を置いて聴いています。


MG まあ、それはクンビアの国際化においては面白いことですよね。それらはメキシコやアルゼンチンには持ち出されましたが、彼らはアフリカのものを持ち出したりはしませんでした。というのもメキシコの唯一の黒人の小さなコミュニティと人々は、ダンスをするためのアップビートの代わりに強いビートを簡単に見つけたからでした。だから彼らは60年代によりヘビーなものを取り除いたフュージョン・クンビアのようなものを作り始めたのです。アフロビートがシンコペーションしたリズムはさらに国際的により消化しやすくなったのです。
MN 消化しやすくなったというのは?クラブのダンスでという意味ですか?
MG はい、ダンスという意味です。だから60年代には低いパーカッションは後になって使われて、今もっとも気づくのは Guacharaca だと思います。今日ではコロンビアのクンビアは多くの違ったリズムを持っていても、考慮すべき一つのことはただ、Guacharaca と llamador(?)がアップビートだということです。

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MN ではちょっと脱線して最近人気のあるペルーのチーチャの話に移ってみましょう。ブルックリンの素晴らしいワールドミュージックのクラブ Barbés のオーナーが組んだバンドがいます。


MG Chicha Libre* ですよね?
MN はい、彼らは2007年に「The Roots of Chicha.」という60~70年代の音源のコンピレーションのリリースもしています。
MG もちろん知っています。
MN 私のペルーとエクアドルの友人の中にはそれを愛してる人もいれば、弱い者いじめだという人もいます。人々は Chicha Libre を「おぉ~サイケデリック・クンビアか~」と思うかもしれませんが、60年代のチーチャでこの言葉は完全に文脈から外れていると言えます。
MG 60年代、ぺルーには Los Saicos や Los Belkings というバンドのような、ラテンアメリカで最も大きなロックのシーンがありました。エレクトリックギターは国の音になりました。リマは太平洋沿岸に位置していて、50年代からビーチを探してカリフォルニアのサーファーが多く訪れていました。リマは中央アメリカから来るときの最初の都市です。それでサーフミュージックは本当に巨大になりました。60年代のペルーからは本当にかっこいい、とてもプロフェッショナルなサーフバンドがたくさん現れました。70年代には事態が変わってきました。60年代のガレージバンドやサーフバンドで演奏していたギタリストのうちいくつかは71年か72年にはクンビアを演奏していたのです。というのも彼らはロックギタリスト以外の仕事がなかったからなんです。だから、それがエレキギターの音はどこから来たのかというのと、人々がクンビアをサイケデリックと思うようになった理由です(笑)


MN 当然 Farfisa* オルガンはアコーディオンの代わりになったと。

MG はい、Farfisa の音は本当にエレクトリックですよね。いくつかのクンビアの曲は、サイケデリックともいえるちょっとエキゾチックに聞こえる音のマイナーキーを使う手法をとっています。


MN 私は友達のカップルのミュージシャンとこんな会話をしたことがあります。彼らはこのエレクトリック・クンビアはリマについてではなく、もっと田舎の貧しい人々のものだと言っていました。実際には、リマから来た人はそれが好きではなかったのです。


MG Juaneco や Los Mirlos のようなバンド、彼らはみなアマゾンから来ていて、なぜチーチャが実際に cumbia amazónica の名も持つのかを物語っている。どのようにしてコロンビアとペルーの音楽がともに進化したのかということはとても興味深いです。チーチャはクンビアの異兄弟のようなものです。しかし「The Roots of Chicha.」に戻ると、ぺルーの流行に敏感人の多くはそれを持っていて、----- それはここで何か起きているか ----- 私たちは時々、ヨーロッパもしくはアメリカ合衆国から注意深くこれらのことを検証する必要があります。偏狭な考え方の人はそれを時代遅れだとか安っぽいとかインターナショナルな価値がないと思うが、ニューヨークから来たある男がこれを素晴らしいと言い、みんなそれに追い着いたのです。
MN それはラモーンズが70年代後半に恐る恐るイギリスに行かなければならなかったのと似ています(笑)しかしここで、メキシコからのクンビアの拡大についての話に戻りましょう。
MG わかりました。それは60年代に始まりました。コロンビアで最初で最大の Discos Fuentes というレコードレーベルがありました。実は、ちょうど昨日創立75周年を祝っていました。
MN ええ、あなたのFacebookのページの書き込みで知っていました(笑)。彼らは色々なものを扱ってますよね?コマーシャルなものからインディーズ、もっとアンダーグラウンドな音楽まで。
MG 全てですね。彼らは海岸沿いのより小さいレーベルの全てのカタログを買い取ったのです。彼らは今、探したいカリブ海やトロピカルな音楽すべてを彼らのものにしています。3人の男がラテンアメリカの他のレーベルと連携しはじめて、コンテンツを分け合っています。Fuentes はクンビアや、Porro*、Puya、Merecumbé に強いレーベルでした。



MN これらのスタイルを定義する事はできますか?
MG それらは全て親戚のようなものです。Porroは50年代に盛んで、当時メキシコ人の注目を集めていたものでした。30年代から50年代にかけてメキシコは、強力な映画産業を持っていて、クンビアを演奏する場所でたくさんのミュージカル映画を製作したのでした。
YouTubeで50年代からのクンビアとPorroを演奏しているだけのメキシコ映画を見つける事ができます。それはキューバの音楽が上映される事に対する一種の対立でもありました。というのも、キューバ音楽のシーンはマンボやチャチャチャ、これら全ての他のリズムだったからです。
MN キューバではサルサやSolや他の全ては関係していたのですか?
MG コロンビアのクンビアとキューバの音楽の二つのファミリーの間の違いは非常に明白です。60年代以降、中産階級はクンビアの主な消費者となりました。それでメキシコではクンビアを演奏し始めたトロピカルなバンドが多く現れました。なぜなら、それらはそれほどシンコペーションではなく、演奏するのにアップビートを取り入れたことがない人々にとってさらに簡単だったからです。60年代後半には、クンビアはメキシコシティーの中産階級の人々に定着しました。しかし北部のモンテレイでは、まったく違うストーリーがありました。そこでクンビアを好きだったのは低所得層の人々だったのです。
MN どの年代あたりの話ですか?
MG 大体75年以降です。彼らはコロンビアの音楽が大好きでした。彼らは本当に好きになって、今日までモンテレイでクンビアを聴く人は彼ら自身を"Colombians"(コロンビア人)と呼ぶのです(笑)。彼らの周りの高層階級の人たちは彼らに、文化に入れ込みすぎててクレイジーだと言うのです。私はメキシコに滞在中にモンテレイへ1ヶ月ほど行ってきました。彼らはクンビアが何であるか、変わった概念を持っていました。彼らがクンビアをかけるバーで壁にコロンビアの国旗ををペイントしたり、海岸沿いの典型的な帽子を被ったりするのです。彼らはそれをとても誇りに思っています。彼らはまさにColombiansでありColombiansでありColombiansなのです!それは文化の横取りの素晴らしい例です。
MN それが起こったのがモンテレイというのが面白いですね。北部の工業都市だし、それほど海岸にも近くないし。
MG はい。アメリカ合衆国との国境からたった3時間です。おもしろいですよね。ボゴタの全てのギャング、またはほとんどの都市での本当の都会で起こりうること、彼らはヒップホップを聴きますよね?でも、モンテレイのうような本当にアメリカ合衆国に近い大きな都市では、ヒップホップが全てでは無いのです。彼らはクンビアやバジェナートなのです!クレイジーですよね。
MN ええ、彼らはいいセンスをしていますよね。現在は Celso Piña や El Gran Silencio の比較的新しいクンビアも共存しています。メキシコ人の友達が薦めるような流行に敏感な人を惹き付けるモンテレイのバンドの Kinky または他のメキシコのオルタナティブロックなどもあります。
MG 私は二つの異なるスタンダードを見ました。アンダーグランドなシーンと商業的なシーンの二つです。それらはとても違うアプローチで、コマーシャルなものは時にラテンアメリカの中でのクンビア文化の本質に触れていないのです。メキシコやブエノスアイレスやコロンビア、ニューヨークのアンダーグラウンドのシーンやダンスフロアに関係している、出来事のほとんどは、クンビアの新しい世代であり世界の多くの人々の注目を浴びているのは何かということです。
MN はい、でもこのシーンは前者の Control Machete や Plastilina Mosh といったいくつかのバンドのように並行して形成されていますよね。私はメキシコシティーの Molotov のようにそれらはヒップホップにも使われていると思います。他の並行しているものでロックやブリット・ポップのようなものがあればお聞きしたいのですが。メキシコや他のラテンアメリカのどこにでも単にアメリカ合衆国やイギリスのインディーロックを真似しているだけのバンドが居る事には気づいています。
MG ええ、実際、音楽の80%はすでにやられてしまっているということのように思えます。どんだけたくさんの糞みたいなバンドが、英語で歌っていたり、英語のバンド名をつけたり、何千回も聞いた事あるような音楽であることは想像できません。


MN 私が最近見つけた違う種類のトライディショナルなクンビアのグループは “Los Yes Yes” というものでした。彼らは多くのフルートやアンデス笛のようなアンデスの音を使っていました。メキシコのクンビアにアンデス人がもたらした影響について教えていただけますか?


MG メキシコには多くのアンデスのクンビアのスタイルがあります。80年代に本当に大きなシーンがありました。それはソニデロのバンドと行われていました。
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MN Cumbia Sonidera の定義から始めましょう。
MG それはとても重要なことです。ソニデロの文化はメキシコのサンドシステムのようなものです。彼らは70年代から大きな伝統を持っていました。国中どこへでも持っていけるトラックに積んだ機材で大きな野外パーティーをしていました。さっき私はモンテレイの最初のソニデロ、Sonido Dueñes について話していましたよね。彼らは80年代初頭にメキシコシティ周辺で彼ら自身のプロダクションを始めました。古いクンビアのチューンだけどシンセサイザーが加わったもの、ちょうど新しいバージョンを作っていてシンセ・クンビアの様なものでした。彼らはクンビアを作る全ての新しい手法を紹介し、誰もシンセサイザーやドラムマシーンでクンビアをやっていませんでした。
MN 現代のクンビアを語る前に、アルゼンチンの話しをしましょうか。


MG アルゼンチンも非常に特殊なケースです。60年代から多くのコロンビアの音楽がかけられてきました。彼らはキューバのサウンドよりも、アルゼンチンでクンビアを演奏し始めた El Cuarteto Imperial というバンドなど、クンビアを好みました。それは中産階級のものでしたが、90年代後期にアルゼンチンでは大きな経済危機がおこりました。このころ、貧しい人々は彼ら独自のスタイルのクンビアを作り上げました。それが基本的にはギャングのクンビアとしてのクンビア・ビジェーラ(cumbia villera)です。
MN それはブラジルのバイレ・ファンキ(baile funk)とも並行していますか?
MG それは確実だと思います。それは貧困、麻薬、売春、銃について唄われたゲットーの音楽です。もし2000年くらいのアルゼンチンの新聞記事でクンビア・ビジェーラについてのものを見れば、それはアルゼンチンで起こった最悪の事だと書かれています。アルゼンチンでは本当にロックが人気です。だから、それはまったくうまくいかなかったのです。しかし、ゲットーの者達はシンセサイザーとビートで、メキシコのソニデロのサウンドにとても影響を受けたものを演奏し始めました。非常に重要なターニングポイントはオランダ人のアーティスト、ディック・エル・デマシアドの影響によってもたらされました。彼は2001年頃にアルゼンチンにやって来ました。当時は高層階級のエレクトリックミュージックの人々にクンビアを言及するには、間違いなく政治的に不適切な時でした。彼は「狂気のクンビア」と呼ばれるスタイルを持ち込みました。それは非常に実験的ですが、彼のオランダ人としての存在は人々が持っていた先入観を揺さぶり、ディックはブエノスアイレスでムーブメントを始めました。クラブ Zizek* で起こる全てのことはディックが Festicumex* とともに行って来たことが起源です。


MN アルゼンチン人はクンビアをアンチ・タンゴとして見ていますか?
MG たしかにそうですね。


MN 私の中ではアルゼンチン人の30代、40代、50代でそれを感じ続けています。特にタンゴに熱狂的な人ほど。それはまるで、階級意識が強いか、アメリカ合衆国のロッカーがヒップホップに対して持っていた人種差別的な反応であったり、最初に登場したディスコのように。
では現在のクンビアにスイッチしていきましょう。アルゼンチンから始めたほうがいいですかね?それともコロンビアがいいですか?
MG アルゼンチンから始めましょう。それからもっぱら私の専門であるコロンビアに行きましょう。アルゼンチンの巨大なムーブメントになってきた Zizek の周辺では大々的に宣伝が行われています。これはブロガーの文化と大きく関係がります。これらの人はワールドワイドなブログと広範囲にコンタクトをとっていて多くの知名度を得ています。遠く離れた場所からのエキゾチックな都会のビートも、アンゴラの Kuduro* や、ブラジルのバイレファンキのように、2~3年前の Diplo や M.I.A のような人々の認知度とともになされなければならなかった。都会の音楽の他の種類に目を向け始めた世代がいて、Zizek は基本的には夜、適切な場所に現れたのです。たしか私が2年前に行ったときはそこには30人くらいの人がいました。
MN それは Grant Dull (El G*)  がパーティーにいた時のことですか?彼はアメリカ人ですよね?私は彼とラテン・オルタナティブ・ミュージック会議で会いました。彼はその中でも面白い仕事をやっている人間だと思いました。


MG Zizekで彼は物流や問い合わせを管理しています。この新しい世代はいくつかの異なったスタイルに進出しています。以前のアルゼンチンでは、楽しくさせるような安っぽいものにより夢中になっていました。それは、今再評価され始めている何かだと思えます。当初は下級階層のように演奏しようとするミュージシャンが多かったです。ここラテンアメリカでは多くの階級に関する問題があります。

MN コロンビアのものになると、現代のクンビアグループで実際にニューヨークで大ヒットしたのは Monareta* と Bomba Estéreo* でした。 Bomba Estéreo はこの夏に素晴らしいヒット「Fuego」を出し、アルバム「Blow Up」もとても素晴らしいものだと思います。
MG Monareta のメンバーはニューヨークに住んでいて、あの街のシーンに波長を合わせたというのがひとつのポイントです。実際、バンドのギタリストの Andrés Martínez は私たちがダブプロデューサーの Mad Professor と一緒にプロジェクトを行なったときにギターを弾いてもらいました。3日間レコーディングを行ない、8つのトラックを彼と録りました。5つは私が作曲し、他の3つはスタジオにいるみんなで即興で作りました。それは Mad Professor のようなビッグな人にクンビアのプロジェクトに興味を持たせるためにとても重要でした。私たちはブリティッシュ・カウンシルがスポンサーとなった、「Transnational Cumbia」と呼ばれるプロジェクトを行ないました。
あと、Bomba Estéreo は今本当にビッグになりましたよね。日本にも演奏しに行くというし、おそらく最もインターナショナルなクンビアだと思います。
MN ライブを見て、彼らが間違いなくそれに値すると思います。「Fuego」のビデオには、みんながストリートに出てくるときにのような驚きの感覚があります。非常に民主主義的で平等です。政治的な観点からも、私はそれがすごくポジティブであると思っています。
では、あなたのバンド Frente Cumbiero について参りましょう。それは Ensamble Polifónico Vallenato からどのように発展したのですか?
MG 最初はコロンビアの音楽をやっていて、作曲を学ぶためにロッテルダムへ行きました。そしてアフリカやアラブの音楽を学び、それらの間に何かの繋がりがあるとだんだん分かるようになりました。その他の音楽も学んでおり、世界中の音楽家と一緒に演奏していました。そして2004年頃、オランダでいくつかのクンビアのプロジェクトを始め、ディック・エル・デマシアドと知り合いになりました。この時点ではクンビアに関しては本当に何も感じませんでした。コロンビアではボゴタの新しい世代がクンビアのやルーツを研究・演奏してたり、ガイタ* やアレグレ* の太鼓などを演奏してたり、海岸沿いへ達人に習いにいったり、伝統を非常によく勉強していました。
私は別のアプローチで ----- 私はラテンアメリカの音楽のスタイルとしてのクンビアにより興味がわき ----- アルゼンチンとメキシコから来た友人とプロジェクトを始めました。しかし、クンビアというテーマはここではとても広すぎて、アルゼンチンやメキシコのクンビアや、ペルーには cumbia amazónica がありこれらがすべて違うことさえ誰も知りませんでした。

*アレグレ http://bit.ly/eSBV9Y
MN コロンビア人は本当にコロンビア音楽じゃないものを聞いているということですか?
MG ええ。彼らはロックを聞いています。人々は本当にクンビアがインターナショナル性を知りません。クンビアはその商業的なレコーディングが80年代にはされなくなりました。それから、バジェナートが完全に引き継ぎました。クンビアとバジェナートの間には大きな違いがあります。悲しいことに、80年代からコロンビアのクンビアはクリスマスに関連付けられています。


MN クリスマスですか!なぜでしょうか?
MG 大きなパーティが行われる12月、そこにはノスタルジックな雰囲気がありますよね、それは古臭いものだと見なされるようなのです。
MN バジェナートは違うのですか?
MG いいえ。バジェナートは現在のものです。500位のバンドがバジェナートを演奏していますが、商業的にクンビアを演奏しているバンドはひとつもありません。

records_3.jpg
MN それではそうしてあなたのバンド Frente Cumbiero はそこにフィットするようになったのですか?
MG 私はクンビアが、古臭いものではなく、現在の音楽スタイルとして提示するプロジェクトをやってみたかったのです。DJをしたり、他のロックに入れ込んでいる人々にレコードを聴かせたりしました。そしてラテンアメリカから来た他のミュージシャンと仕事をするようになりました。
MN Frente Cumbiero にはふたつの側面があるようです。ひとつはコロンビア固有のもの、もうひとつは国際的なクンビアのシーンへの大々的な参加です。
MG はい。私はコロンビアのリズミカルでメロディックなフレーズに興味があります。しかし同時に、国際的なクンビアのシーンと繋がることにも興味があります。私は自分のことを伝統主義者だとは思っていません。Frente Cumbiero という名前は、“cumbia front” という意味で、これはコミュニティであり Mario Galeano のプロジェクトではないのですよ。主な私の興味はホットなレコードをさがすことではないので、ここ数年このちさなプロジェクトを介して他のクンビアシーンとの関係を強化してきました。今では、それらの調和をとるために私は少し悪名を帯び始めていますよ。
MN クンビアの拡がりについて、アンダーグランドなパーティーはニューヨークでは1年間続いています。彼らはそれをトロピカルダンスパーティーと呼びます。それらはクンビアにレゲエやダンスホールや他のスタイルを取り入れる可能性を持っていると思います。あなたはクンビアがいかに重要であるかを一人で語っていたのではないですよね?
MG 全然私ひとりではないですよ。コロンビア人がクンビアを聴かないと言ったのは、一般的な大衆が聴かないという意味でした。ミュージシャンやアーティストのグループでは数百人物人々がパーティーにいます。私たちは独自のシーンを作っているのです。もしボゴタのレコード店に行けば、いいものを見せてくれないでしょう。それは一般的な人々の繋がりが失われているからです。それが誰もクンビアを聴かないと言った理由です。今のところ、クンビアは間違いなくアンダーグランドのシーンです。
MN Frente Cumbiero の音楽を説明してください。
MG 私の音楽のメインにあるのはコロンビアのサウンドです。それは50年代や60年代の古い音です。何年もの間私は Andrés Landero* の音楽に夢中になっていました。彼がすべての鍵になっています。私は彼の音楽を新しいツールで再解釈してみました。非常に多様な様式で試したかったのです。16のホーンに、カルテット、コンピュータだけなど。私はコロンビアの海岸沿いのクンビアの美学を探求して、それを自分自信で解釈することに興味があります。重度のレコードコレクターでもあり、いつも古いクンビアのレコードを探しています。たぶん知っているかも知れませんが、クンビアの過剰な宣伝により、イギリスやアメリカ合衆国の人が国中で見つけられるすべてのクンビアのレコードを買いに来ていて、オリジナルのレコードを見つけるのが難しくなってきています。彼らのレコード店で売るために、本当に大量に買っていきます。

MN リマスターされてCDにされたりしないんですか?
MG はい、絶対にありません。
MN Frente Cumbiero を聴くぶんに、トラックはお互いに幅広く異なっていますね。あなたは一つのスタイルに縛られたくないと言っていましたね。
MG 私はコマーシャルなアプローチで何かをやっているわけではありません。だからひとつのやり方に留まることはしません。ただ違った土地に触れるというプロジェクトを行うことだけに興味があります。ここ数年、これらの新しいトレンドとともに何かを、私が行っているのではないと思う。ただ一番好きな音楽に敬意をはらっているだけなのです。
MN それでは、もしいわゆるコンサートの内容のリストをつくるとしたら、同じ夜行われているパーティーの数だけのスタイルがあるでしょう。
MG ええ。最近は自分だけで、小さいキーボードとレコードを使ってコンピュータだけのセットでやることが多いです。他の形式では、トロンボーンやサックス、パーカッショニストとコンピューターです。場所によって変わります。でも私たちがここ半年ほどやってるパーティーでは私だけで、50年代、60年代、70年代そして80年代のレコードをかけるというものです。
MN あなたはDJ、そしてクリエイティブなアーティストとしても同時に活動していますよね?
MG はい。それらを混ぜています。
MN どっちのスタイルを Frente Cumbiero は盛り込んでいますか?
MG 私はクンビアのアコーディオンが私自身にどのように影響を及ぼすかを見つけたいんですよね。pelayera* バンドと呼ばれるブラスバンドにおいてもです。これらは様々なメロディー、フレーズ、メロディーに関連するスタイルです。私はこれらのスタイルを復元しています。初期のバジェナート、bullerengue*や、gaita のスタイルも混ざってきます。でも実際、すべてのラテンアメリカの異なるクンビアはそんなものです。特に興味があるのは cumbia sonidera、rebajada、villera、amazónica、lunática がどのようにしてコロンビアのクンビアに新しい美学をもたらしたかということです。



MN コロンビアの音楽にスカやレゲエが与えた影響はどうですか?というのも、あなたはバンドで管楽器を演奏するといったところからスカはどうなのかと。私はそれは循環だと思うのですが。スカは60年代初期にジャマイカで始まり、消えて、イギリスのスカとして戻ってきて、また消えて、カルフォルニア・スカ・パンクとして戻ってきました。ロシアのレニグランド*というバンドはギャングスター・スカです!


MG それほど偶然の影響だとは思いません。スカはそれほどコロンビアの音楽の影響はないです。
本当に古い porro の曲にはたしかに60年代のジャマイカのスカみたいですが、それらは50年代からあったし、それは両方の音楽の構造がたまたま関係しているのだと思います。レゲエやスカのベーシストは常に強いビートで、管楽器のアクセントはアップビートです。だからそれはシンコペーションです(ビートを真似している)。代表的な管楽器音楽の伝統として pelayera があります。porro や fandango が演奏されそれらは100%管楽器の音楽です。
MN バルカン半島とラテンの繋がってヨーロッパで発生したことは Frente Cumbiero に影響を与えましたか?
MG 私はバルカン半島のジプシー音楽が大好きですし、実際に二つの伝統がどこで出会ったかを特定することが出来ます。それは単に偶然つながったと見ても面白いですしね。私は、19世紀後半あたりの海岸沿いでどのように banda pelayera の文化が始まったのかという理論を考え出しました。19世紀後半に、そこには大きな土地の所有者がいて、他の地主に彼らの力を証明しようと管楽器を輸入しようと決めました。主にインディオや黒人などの民族の混血の農民は管楽器の演奏の仕方を知らなかったのです。彼らはそれらのヨーロッパの管楽器ではなく、もともと先住民のものであった笛を演奏しました。だから、地主は、スペインの南部 (既にジブシーとスペインの混ざったフュージョン音楽が生まれていた場所) から先生を連れてきました。例えばpasodoble* (ジプシー管楽器とスペインが影響し合った音楽)です。私は pelayera のバンドの中にはたくさんのそれらのフレーズを見つけることが出来ます。

MN コロンビアにはジプシー(ロマ)のコミュニティはありましたか?
MG はい。コロンビアには3つのファミリーがあります。彼らはコロンビアでは民族のグループのひとつとして政府から認められてさえいます。
MN 彼らは音楽的に活発ですか?
MG いいえ、それは恥ずべきことです。ロマの歌を彼らが歌うの見ると、彼らは本当に音楽的背景を失ってしまったのだなと思います。
MN Frente Cumbiero はロマからの影響を取り入れていますか?
MG はい。私は今2つの管楽器をつかった新しいセットを準備しています。私が使ったアコーディオンのリフのうちいくつかはバルカン半島のアコーディオンの伝統的ものから影響をうけたものです。さっき言ったTransnational(多国籍) Cumbia のプロジェクトの継続は、両方のスタイルを統一するイギリスのジプシーのホーンセクションとのコラボレーションも含まれるでしょう。私たちはそれを San Pelayo で行われる Porro Festival でやりたいです。セルビアの Guča Festival*の我々バージョンのように。ブラスバンドの狂気です!

*Guča Festival  http://www.guca.rs/

MN はい。イギリスで今いくつか進行中のコラボレーションがありますね。Drunken Balordi はバルカン半島とアイルランドのミックスみたいで、アイルランドのロックにジプシーの管楽器が加わったようです。あと DJ Max Pashm はユダヤ人のクレズマー音楽とジプシー音楽をかけるし、リミックスやライブも行っています。


MG アフロコロンビアンの音楽のなかで歴史的な人物で Totó la Momposina* という人を知っていますか?彼女はツアーにいくときイスラエル人のRafi Malkiel* という bombardino* 奏者を連れていきます。それは想像もできないほど相性がよいのです。bombardino はユーフォニアムのような小さいチューバのようなものです。

*Totó la Momposina http://www.totolamomposina.com/
MN Totó は何ヶ月か前にニューヨークで演奏しました。ニューヨークではかれらは夏に公園でコンサートもします。彼らは同じハコで演奏するアメリカのインディーズのロックバンドのための高いチケットを販売することによって、ワールドミュージックに資金提供しています。しかし、ワールドミュージックのためのスペースは沢山ありますよね。Frente Cumbiero はアメリカ合衆国に来る予定はありますか?
MG 私はものごとが有機的に発展するのを待っています。今は Mad Professor とやっているトラックを完成させて、プロモーションを始めて、できれば来年ライブをしたいと思っています。来年には世界中からゲストが参加する古いクンビアのリミックスアルバムも計画しています。Un-Convention と呼ばれるマンチェスター団体と繋がりがあって、6月にメデジンでコンベンションが行われます。ボゴタでは4月頃に小さいクンビアのフェスティバルを行う予定です。私はコロンビアの代表として、 Sistema Sonoro Macaco* はメキシコの、あとたぶんアルゼンチンの代表として El Hijo de la Cumbia* が参加します。世界で始めてクンビアで何かを起したいです。しかし同じように、ラテンアメリカとの繋がりを強化することにも興味があります。というのも、私たちにはそれほど多くの架け橋が無いからです。これらの出来事が他のところでも起こってとてもうれしいし、誇りに思います。クンビアの国際化を言う純粋主義者が増えるのは起こりうる最悪の事態です。それはろくでもない音楽を作ってしまいます。しかしここ20年のうちにコロンビアのクンビアに起こったことを彼らは何というのでしょうか?

スタイルを創り上げるのは私達です!




2011年4月16日土曜日

Cholombiansのファッション

メキシコのモンテレイ在住イギリス人のフォトグラファー/ファッションデザイナー、Amanda WatkinsによるViceの記事。

 

VICELAND TODAY

AMANDA WATKINS LOVES THE CHOLOMBIANS 

(元記事: http://www.viceland.com/blogs/en/2011/03/24/embedded-with-the-cholombians/ )




Amanda WatkinsはCholombiansを数年来追っていて彼女の写真はViceのモンテレイのガイドに特集されている。
彼女はStefan RuizとともにPicture Perfectのエピソードのように、ファッション特集の中でここ最近のCholombiansの話題を提供してくれた。
私たちは彼女にモンテレイでの体験を写真とともに語ってくれるようにお願いした。









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過去4年間私はロンドンとモンテレイ、メキシコを行き来してきて、彼らのスタイルやサブカルチャーを知るようになりCholombiansを取材しはじめました。
彼らのスタイルは私がロンドンで見てきたどんなものとも異なりました。
最初から彼らの持つプライド(heritage遺産の?)が好きでした。
現代的に再解釈された伝統的な服を着ている若い世代のグループを見れてとてもよかったです。

本質的に彼らのTシャツやパンツが変だという事ではありません。
しかしこれら服装の装飾にある宗教的なイメージは典型的なCholombianをつくりあげます。最近多くのCholombiansは、メキシコの宗教のアイコンを、彼らのシャツや首に下げる札のようなもの(escapolariosと呼ばれる)へと顕著に変えています。


Cholombiansのスタイルを語る上で彼らの髪型がジェルによって大きなものになるのは欠かす事ができません。彼らの劇的に長いもみあげはしばしば顎まで届き、ジェルやクリームで滑らかにされるのです。
彼らの頭は時に、頭皮が見えるまで剃られることもあります。少年たちは個人的なヴァリエーションの余地が許可されているため、彼らは実験を恐れていません。しかしながら、外見はたいてい帽子を一番小さいサイズにして頭の上にしっかり浮いているのです。


彼らのシーンは本当に音楽そのものです。地元のバンドが演奏してるときに一緒に “la rueda” を踊りにいく事は決まりごとでもあります。多くの音楽はコロンビアのアーティストで、Norteno(北部の) twist が加えられます。カップル達はまだ時代遅れのダンスを踊るが、それは紛れも無くクールなものです。時に、バンドは人ごみのなかの誰かの為に唄を捧げたりもします。それはどんなコロンビアン・ナイトの中でもハイライトになるのです。
彼らは家で作った、熱烈なリクエストがグラフィティスタイルで描かれた大きな段ボールのサインを持っていきます。彼らは準備ができたら携帯電話で即興をするのです。


Cholombiansが現れて以来、彼らはサブカルチャーでしばしば起こりがちな記者達による否定的なプロパガンダにさらされています。しかし今、きっと多くの繊細さによって重要な問題がまさに今メキシコで起こっており、彼らのもみあげ無しでも新しいスタイルに適応し始めています。

ーーーAmanda Watkins