Afro-Mexico Road Trip #1: Introducing Afro-Mexico
最初に、メキシコシティーから山を降りゲレーロ州にあるCosta Chichaを訪れました。クンビアほど伝統的ではないが、クリオーリョのコミュニティで伝統的なchilenaが演奏され、エネルギッシュな場所です。そこから私たちは海岸へ降り、最も狭いポイントで交差する場所を超え、アフロ・メキシカンが影響したSon Jarochoの若者達のリバイバルを体験出来るベラクルスの南の町を訪れました。そしてベラクルスの市街へ、メキシコでアフロ・キューバの普及を促進した港まで運転をしました。最後にまた山を上りメキシコシティーへ戻り、かっこよい年配の人々が未だにアフロ・キューバのdanzónで踊る古びたダンスホールを訪れました。
アフロ・メキシカンのリサーチは、ラテンアメリカの他のアフリカ系の伝統音楽の研究とは大きく異なります。というのも「アフロ・メキシカン」が何を意味するのかが未だ明確ではないからです。事実、植民地の記録によると、10万人以上のアフリカ人が奴隷として16世紀から17世紀にかけてメキシコに連れてこられました。1793年にはメキシコの人口の実に10パーセントの人々(=37万人)がアフロ・メキシカンだったと当時の国勢調査の記録が残っています。ビセンテ・ゲレロなを含む大統領や、革命のリーダーJosé Morelosなど初期のメキシコの軍隊の英雄達はアフリカ人の先祖を持っていました。
史実やメキシコでの日常、人々のアイデンティティの中では"アフロ・メキシカン"という用語はさらに明確にはなっていません。ほとんどの場合アフリカ系の人々は、先住民とヨーロッパ系と完全に混血化されてきました。長い間、メキシコ人のイデオロギーは、混血の先住民とヨーロッパの血に基づく "raza cosmica"( 宇宙の競争)の概念を信奉してきました。そして、メスチーソの概念とそのものはメキシコでは国家のアイデンティティの大きな一部となりました。アフリカは「3番目のルーツ」と呼ばれ、決して語られる事がありませんでした。
近年では驚く事に、多くの人がアフロ・メキシコについて語るようになってきました。アメリカとメキシコの両方で学術的な論文や博物館での展示などが行われるようになり、政治的な組織も現れるようになりました。国民の認識を後押しするためにアフロ・メキシカンであるアイデンティティを重要視する努力がなされていて、それは文化的な取り組みのために多く必要な資金調達を可能にしました。ラジオ番組やドキュメンタリーがあり、語られる事のなかった歴史的なグループに声を与え、忘れられた歴史を取り戻すこととなりました。
一方で懐疑的な説もあります。そのいくつかは、"アフロ·メキシカン"の概念は、米国の研究者、メキシコに対するアメリカの人種的な考え方によって作られたと言われています。もしくはそれは、アフリカ系アメリカ人との政治的連帯のために人種的根拠に興味のあったチカーノの活動家により育まれたと言われています。裕福なヒッピーやアカデミズム以外のメキシコの人々は、しばしばその黒い遺産の話をしばしば不安げに話したりします。用語としての議論では、それはアフロ・メスチーソ、アフロ・メキシカン、単にafrodecendiente(アフロの子孫)とでも呼ぶのでしょうか? Costa Chicaで出会った一人の文化活動家は、彼の文化は"アフロ·メキシカン"ではないと主張していました。彼はクリオーリョまたはクレオールという考えを好んではいませんでした。そしてアメリカのson jarochoのグループがしばしば彼らの音楽のアフロ・メキシカンの起源を売り込む一方で、Los Cojolitesのようなベラクルスのjarochoの有力なグループのメンバーに、彼らの音楽のルーツ、アフリカについて尋ねると苦笑いを浮かべるなり、「それは、彼らが私たちに言ってるだけだ。」と言っていました。それは彼らの音楽の解釈でもあるが、大きく複雑な文化の一部でしかありません。
それは複雑である。
それは政治だ。
常にそれはアイデンティティである。
しかしこのプロジェクトを経て、我々が持つ最善のツール=音楽で、その複雑さを探求する機会を得ました。それはこのHip Deepの最初からの使命であり、自分自身が同じく踊りながら、歴史と文化の濁ったスープを探索することでもあります。
All photos by Nina Macintosh.