2011年5月31日火曜日

5 QUESTIONS WITH JOSE L. CARBALLO by MIKE P for Masstropicas blog

(元記事: http://listenrecovery.wordpress.com/2011/04/20/5-questions-with-jose-l-carballo-by-mike-p-for-masstropicas-blog/

http://masstropicas.blogspot.com/2011/04/5-questions-with-jose-l-carballo.html )





JOSE LUIS CARBALLO

Masstropicas の5つの質問シリーズが帰ってきました。私たちの最初のセグメントは Jose L. Carballo という生きる伝説の男とともに心のこもった文章(スペイン語)から始まります。70年代の半ばホセは、スタジオレコーディング多く演奏しており、プロデュースを行っていました。チーチャのファラオともいえる chacalón とともに、LA NUEVA CREMA から始まりました。彼は後に様々な違ったボーカリストによる素晴らしいバンド LA MERMELADA を結成しました。ホセは次回のMasstropicas のコンピレーション「EL SONIDO DE TUPAC AMARU」に3曲参加する予定です。





INTERVIEW by Mike Pigott aka MIKE P of Masstropicas

あなたが最初に学んだ楽器はなんですか?また、ギターを弾くようになるのに大きな影響を受けたギタリストはいますか?

JOSE: 私の最初の楽器はギターでした。私はハイブリッドなスタイルでミクスチャーなのです。60年代にエリック・クラプトン(クリーム)や、トニー・アイオミ(ブラック・サバス)、ジミー・ペイジ(レッド・ツェッペリン)などのアンダーグランドなミュージシャンに影響を受けました。後にキューバの“Los Compadres”や“Guaracheros del Oriente”に影響を受けました。同じくキューバの“Trio Servando Diaz”や“Tarrega”のようなクラッシックなものもありました。



あなたが関与している最も誇りに思っている作品はなんですか?

JOSE: 一番の自信作は“Chacalòn”と一緒にやったものです。というのも、私は今まだ聴くことのできる音楽のスタイルを、ギター演奏方法を多く吸収することで創り上げてきたからです。


あなたはCHICHAとCumbia Peruana(ペルーのクンビア)の間に何の違いがあると思いますか?

JOSE: 私にとってチーチャとペルーのクンビアの違いはただ、世界に対してのペルー人の肌の色のようなものだと思っています。少し(そのルーツを否定して)“ペルー音楽文化芸術”の真実を受け入れないようにという意味でもあります。人種差別と反抗は、別の地域の人々自身が受け入れることができます。国としてのジャンルや、多様性や主にリマに住む人々の分断を造ってしまったやり方にならないように、「チーチャ」という言葉は逆行していました。


音楽的には、例えば、私はリマのサンイシドロで生まれたので、この違いを表現することは困難だと思います。リマの最もヒップな街で私が造った音楽はチーチャと名付けられ、“Chacalòn”や、Hijos Del Sol”、 “Chacal”、“Viko”、 “La Mermelada、その他多くのヒット曲が産まれました。私はあなたが“Cumbia Peruana” (Peruvian Cumbias)として知っているような、Carlos Ramirez, Claudio Moran, Julio Mao (Cuarteto Continental), Raul Serrano (Combo Palacio), Los Cariñosos などのアーティストのプロデューサーです。




Jose Luis Carballo のように私のファンは、私を呼んだりするときには “Chichero” もしくは “Cumbianbero”? と言います。彼らはどっちかの方法で私を呼び、いつもそれは同じです。私の作品の中で重要なものは、全ての曲はこの多才な手から生み出されるということです。それらは世界へと旅立ち、今でも La Colegiala”, “Eres Mentirosa”, “Ven Mi Amor”, “Viento”, “Lagrimas De Amor”, “Las Limeñas”, “El Arbolito”, “Traicionera”, “El Aguajal”, “Enfermeraなどは旅を続けています。



ブラックサバスのアルバムのなかでどれが好きですか?


JOSE: 私は「パラノイド」かな。ブラックサバスのベストなアルバムはこれだけじゃありませんが、最高のヘビーメタルのアルバムの一つでもあります。伝説的なシングル「アイアン・マン」と「パラノイド」も含まれているし、ヘビーメタルの歴史の決定的な瞬間だと思います。









Thanks to Jose for all of his cooperation and help with the EL SONIDO DE TUPAC AMARU project. We hope you enjoyed the interview an English version will soon follow…. MIKE P (Masstropicas.blogspot.com)

2011年5月10日火曜日

Chicha posters




これは、クンビアとチーチャに素晴らしいグラフィックアートを提唱する、私たちのささやかな意見だ。灰色の春の天気とは対照的に、これらのポスターの色はトンネルの最後の光のようなものだった(完全に催眠状態)


なんとしてでも、私たち独自のものにチャレンジし、この展覧会のキュレーターである Jules Bay にお礼をしなければならなかった。私たちは Urcuhuaranga 兄弟にに会うために街から13kmも離れたところからやってきたのだ。


そこで彼らは、父親がどのようにこの技術を発明したかを説明してくれた。
ポスターは手作りで、真っ白な肉屋の紙に実寸でデザインされる。デザインは シルクスクリーン印刷のテンプレートとして一度切られてしまう。ケミカルを使ったりや写真を現像したりする工程はいっさいない。それは、スクリーンの網を詰まらせて一度仕上げて、オリジナルのデザインのまま、同じ方法で繰り返しポスターを作ることが可能な紙だ。


ポスターに書かれる情報は、同じ方法で構成されていて、日付・場所・バンドの名前が見る者にとって分かりやすいように作られている。このような形式で、私たちはこの非常に風刺的な観点から、5つのポスターを作った。


リマで私たちの注目したトピックは、食べ物、天気、極貧の経済、ひどい交通、の4つであり、純粋に自己プロモーションされた個人的なポスターなのだ。

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Chicha banner

(元記事: http://www.equipoplastico.com/projects/la-cuadrada/banderola-chicha-en/ )






大きな写真出力のためのプロッターが普及したために、明らかに以前より廃れてしまった驚くべきテクニックが"Chicha(チーチャ)"の文化から産まれた。これは1ヶ月ももたない全くはかないものだ。
チーチャのような音楽イベントには広告がよく使われるが、巨大なスケールで戦略的な看板では、バナーは薄いナイロン素材の壁紙で作られ、手でカットされた文字と水と小麦粉を混ぜた糊で張り付けられている。
シンプルでありながらも効果的である。私たちのバナーはリマ市の主要な玄関口の一つである、中央高速の人気のある市場の近くに掛けられ、”本物の”バナーの間でカモフラージュされていた。
文化の中心に、私たちはレプリカを置こうと決めたが、それは小規模だった。
これは展覧会を訪れた多くの人にとってはじめてのことで、身近なとこで見ていたというのと、通常ポスターに使われる材料によって作られていることに特に驚いていた。


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ARGENTINA - DAY-GLO SPERM-SHOOTING BANANAS IN PERU


(元記事: http://www.viceland.com/blogs/en/2009/08/04/argentina-day-glo-sperm-shooting-bananas-in-peru/ )


ARGENTINA - DAY-GLO SPERM-SHOOTING BANANAS IN PERU

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ここではペルーの都市イキトスの、“ブラックライトと蛍光色の服”とは何かについて書きます。それでは率直に地元の独学の画家 José "Ashuco" Araujo の口から語っていただきましょう。彼はエロティックなファンタジーとアマゾンのサイケデリア、そしてクラブの売店の看板をいたずらにブレンドする達人です。



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Vice:  こんにちはホセさん。普段何をイキトスのクラブの壁にペイントしていますか?
José:  僕の仕事はサイケデリックなネオンのペイントがベースにあるんだ。ペルーのイキトスに住んでいて、パーティがたくさんあり楽しいところなんだよ。それで僕たちはブラックライトと蛍光の服が好きなんだ。僕らは常にパブやビデオクラブやナイトクラブをデコレーションしてペイントするよ。僕はナイト・ペインターなんだ。

Vice:  あなたの一日は何時に始まりますか?
José:  朝八時くらいから仕事を始めるよ。いつもまだ暗い時間だね。僕は暗闇でしかペイントをしません。そう、僕はナイトクラブ・ペインターだから。でもそこで午後7時から8時くらいまで仕事をしているんだ。その後女の子達が現れて、男の子達が同じように入って来て僕を邪魔し始めるんだ。


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Vice:  もうその時点で十分にパーティーしてますね。。
José:  そうだよ。最終的に僕は、パーティの最中に中の女の子やお客さんが、僕の作品とどうミックスするかを見届けるまで遅くまで遊んでいるんだよ。女の子はすべてワーキングパートナーだと思ってるよ。彼女らは18歳〜23歳でそれ以上年上がいないのは、ビジネスとしては良くないからなんだ。

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Vice:  少なくともあなたは正直ですね。どのようにしてナイト・ペインターになりましたか?
José:  僕はもう15年もこういうペインティングをやっている。ずっと広告や食べるためのドローイングの仕事をやっていたんだけど、イキトスで一番大きなビデオクラブをやっている友達が、リオデジャネイロからそのアイデアを持ってきて、僕に勧めてくれたんだよ。屋根とか、床、ベンチ、椅子、君が想像できないような箇所にペイントしたりして当時から僕は革新的だったんだよ。それで常にペイントしていて、場所をリフレッシュさせることが好きなんだ。

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Vice:  ここブエノスアイレスで最近やったペイントは何ですか?
José:  それは「ジャングルのハウル」というものだよ。新しいドローイングのひとつで(僕は同じイメージやフレーズをそれぞれの場所で描くのが好きだから)、でも今回は Wilindoro Cacique を描き加えたんだ。彼は Juaneco y su Combo というバンドのボーカリストで、脳卒中で昏睡状態なってしまったんだ。彼は今回復しているところで、なんとか死はまぬがれたけどもう歌えなくなってしまった。でも僕たちは彼という人間を愛してるからたまにステージに登らせるんだよ。そう、彼はクンビアのアイコンであり、とてもインスパイアを受けたし、自分の作品に彼のフレーズをたくさん使うんだ。

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Vice:  繰り返し描かれる男性器や女性器は何を意味していますか?
José:  僕がハマっている場所や環境から、こういう変態でいたずらっぽいイメージや、官能的な女性や性器など・・誰にも問題無いと思われるもの、を同じように普段、描こうとしているよ。

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I certainly don't.
TOMAS NERVI

2011年5月4日水曜日

LOOK AT THESE FUCKING BOOTS!


(元記事: http://www.viceland.com/int/v18n3/htdocs/look-at-these-fucking-boots-721.php )


LOOK AT THESE FUCKING BOOTS!

MEXICAN FOOTWEAR FINALLY GETS TO THE POINT

Published March, 2011 
BY ESTEBAN SHERIDAN CÁRDENAS
PHOTOS BY EDITH VALLE

Martín Hernandez Rodriguez (red shirt), Saul Nicolás Coronado (black shirt), 
and Gabriel Rodriguez Flores (white shirt) are a dance crew from Buenavista.

先月私達は、先の尖った長いつま先のカウボーイブーツの取材にメキシコの Huasteca Potosina の高原にある San Luís Potosí (メヒコ州)北部の “マテワラ” という埃っぽい街へ行きました。この一年間 "botas vaqueras exóticas" という現象がこの地域のロデオダンスフロアやクラブで起こっており、熱心な読者がいるファッションを批評する、同国人であるメキシコ人への不満の多くが、ブログの記事になっています。

しかしこれについて語るのが遅すぎたのかもしれません。間違った悪い評判の履物、それは短く四角いものから、ずんぐりした逆張りの”豚の鼻”の形をしたかつて見た事も無いような不思議なブーツに置き換えられ始めたという事です。

私たちは、テキサス州、テネシー州、オクラホマ州、および移民メキシコ人の大きなグループが根付いてきた他の場所に広がったその動向を、アメリカ本土でエキゾチックなとんがったブーツのトレンドについて時折、報告例で見ていました。そしてそのスタイルが、メキシコで段階的に完全に廃止された可能性は極めて低いだろうと期待しました。

tribal guarachero” として知られる音楽のパーティーが行われる Matehuala という街にある2つの Mesquit Rodeo と Desierto Light というカウボーイクラブで取材を行いました。
本質的にこの音楽はビートの強いハウスミュージックと、古いヒスパニック系の歌とフルート、クンビアとして知られるコロンビアのダンスミュージックを組み合わせたものです。







Los Hermanos’ boots.


Custom glitter boots from Zaragoza de Solís. 





マテワラでは guarachero は思いも寄らず、理論的には仲の良くすべきではないものと、仲良くすべき多くの人々の音楽のスタイルになりました。長く尖ったブーツを履く男性や少年にも好まれました。

これらのダンスコンテストの参加者は数日から数週間前に、複雑なフットワークの振り付け練習と、チープなペイントと布で服を作ります。熱狂的な群衆の愛情に選ばれた大賞はウイスキー1本もしくは数ドルの現金をもらうことができます。

別のコンテストで私たちが見つけて喜んだものは、パブリックな“歌と踊り”のプログラムでも脚光を浴びる、最も長く華やかで尖ったブーツを競うものでした。そのエキゾチックなブーツは普通の靴を、地元の道具屋や工芸ショップで買った材料で改造したものです。他の人がペイントや色とりどりのスパンコールを取り入れているような中で、もっともファンシーだったのはLEDと鏡で装飾されたものでした。彼らは何でもかんでもキラキラしたものを施します。ブーツは上向きに5フィートの長さを計測したものもあると説明してくれました。だから噂では人々はこれらのブーツに飽きていて、それは短いブーツの敗者自身の嫉妬による憎しみや誹謗中傷にすぎないとしています。



Gustavo, 11, and Carlos Mendoza, 15, are known as  Los Hermanos.
They took second place in the dance contest finals. 

「誰かがとんがりブーツで歩いているとき」彼は「 “まさか、あの男は狂っているよ!なんであんなブーツ履くの?” って言うよ。でも誰もがそれぞれ自身のスタイルだよね 」と言いました。

Minri は彼のクルーで他のメンバーを紹介してくれました。Francisco the Cell Phone Guy(フランシスコ -携帯電話の男-) 、Los Pachangueros というグループ、Guadalupe から来たキッズ、サンフランシスコの牧場からやってきたLos Carnales という2人の男です。彼らは全員とんがりブーツを履いていました。

私たちは違う18歳のフランシスコとその妻にも会いました。彼はプリペイドの電話カードと携帯電話のケースを、近くの市場の小さな店で売っていてます。普段彼はアクアカラーの細身のジーンズに赤いビーズで飾った壮大なブーツを履いて、ダウンタウンを歩いてます。かれらの靴は2フィート(おそらくもっと)もあります。

自分のブーツを作る意外にフランシスコは売るための工芸品のブーツも作っています。彼はこれまで推定100足以上の靴を作りました。彼の作品は米国のウェブサイト上の写真でも見る事ができます。

私たちは彼にプロと反とんがりブーツの派閥間の騒動についてどう思ったかを聞いてみました。

「誰もが自分自身のことをやっています」と彼は言います。
「はこれらは、自分に取って一番のブーツだし、とても好きだし、それを履いて踊ったりもします。みんながどう思うかは気にしません。好きだから、それについては悪口は言いません。それが僕の考え方です。」




Luis Angel Castillo Sierra from Buenavista. .Our favorite pair of glitter boots from Zaragoza de Solís. 

2011年4月18日月曜日

Hector Fernandez-L'Hoeste on the Cumbia Diaspora





Hector Fernandez-L’Hoeste はアトランタにあるジョージア州立ジョージア州立大学で、ラテンアメリカの文化を教えている。彼はコロンビアのバランキヤ出身でクンビアとそのアメリカ各地にもたらす影響についてよく執筆している。彼はこれからデューク大学出版から発行される「All the Cumbias」と名付けられたクンビア・ディアスポラ選集の編集者である。


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Marlon Bishop:  始めるにあたって、どうしてあなたはクンビアについて語るのですか?それはなぜ重要なのでしょうか?

Hector Fernandez-L‘Hoeste:  基本的に現時点では、クンビアはアメリカ大陸で最も人気があるジャンルだから重要なのです。アメリカ合衆国では本当にどこでもクンビア愛好者のラテン系の人々を見つける事ができます。メキシコは完全にそれにあたります。中央アメリカやパナマ、そして全てのアンデス系の国、ベネズエラ~チリに至るまで、アルゼンチンやウルグアイのような、それほど強くトロピカル音楽の伝統があると思われていない場所にでさえ、ローカルなクンビアのフォームを持っています。それはすべての場所で言えることです。いったい何故でしょうか? ひとつの理由としては、クンビアは比較的柔軟でシンプルな音楽的構造を持っていて人々に受け入れられ、少しづつ進化をし、それぞれのヴァリエーションが増えたというものです。それはクンビアの成功の秘密でもあります。


MB:  コロンビアでのクンビアの発展における背景について、少し教えていただけますか?

HFL:
  全般的に、クンビアはコロンビアのカリブ海の港町、カルタヘナで始まったとされています。コロンビアは僻地のようなもので、スペイン支配からも優先されてはいませんでした。
力の中心になる都市はありましたが、国の外で、州のような存在はほぼ完全に欠如していました。それは奴隷が、いわゆるパレンケ(メキシコの都市?)と呼ばれるような、奴隷によってルール付けられ組織された小さな街で生きるように ”主導された” ことです。
もともと、クンビアや他のアフロ-コロンビアンのリズムはそのようなコミュニティから来たものです。


20世紀のクンビアはビッグバンドの時代に影響を受けてきました。コロンビアでアメリカの文化影響が徐々に始まり、一連のミュージシャンはビッグバンドの形式に適応しようと決め、クンビアの様式を作り上げていきました。ある意味では、それはメデジンやボゴタのような異なった感性を持った、より大きな内陸都市で集客するための手段でもありました。そういったプロセスを経て、クンビアは中産階級や上流階級受け入れられました。しかし、50年代、60年代初頭には既に全国的なものになっていました。これらは主にLucho BermúdezPacho Galánを中心とするものでした。


MB:  それはクンビアが国外で人気になたのと同じ時期ですか?

HFL:  いいえ、それは全く違います。Lucho Bermúdez と Pacho Galán はツアーを少し行っていました。しかし、それは簡単に海外で受け入れられるにはあまりにも“コロンビアン”な音でした。彼らはメキシコや中央アメリカ、カリブ海諸国、アメリカ合衆国にさえ演奏旅行をしに行き知られるようになりました。しかし、後の国際的な chucu chucu(チュク チュク)スタイルのクンビアの熱狂はまだ起こりませんでした。

MB:  チュクチュク ? それはなんですか?

HFL:  説明しましょう。60年代にコロンビアで近代化の波が押し寄せました。レコーディングスタジオはクンビアがもともとつくられていた海岸沿いから、メデジンやボゴタに移動しつつあり、テクノロジーに組み込まれたプロセスの中にありました。テクノロジーが追いつくと、クンビアを作る上でより効率的な形態が生み出されました。もはやよりお金のかかる大きなバンドである必要もなくなりました。もっと小さなアンサンブルでオルガンやエレキギターを組み込む事ができたのです。

このうち、コロンビア人が最初に文字通り「ch, chchch, chchch」を発音した 
chucu chucu(チュク チュク)呼ばれた新しい種類のクンビアが生まれました。それは guacharaca グラチャカ、ギロのような擦るチューブの音です。最終的な結果は、この非常に単純なリズムでした。これは正式な学校教育なしで、ほぼ誰もが受け入れることができ、すぐに演奏出来る音です。大きな魅力ですよね。その美しさはすべて、それが最初の声を持っていない人に声を与えるということです。しかし海外沿い出身のミュージシャンは、クンビアに起こり始めていることを強く嫌っていました。

MB:  それは何故ですか? 

HFL:  トライディショナルな Toto La Momposina のようなクンビアを聴き踊り方を見ると、それほど chucu chucu とやっていないんですよね。リズムは遥かに複雑です。しかし彼らはその構造を使い、chucu chucu を発生させたような方法で進化させましたが、それは最初のアイデアではありませんでした。

MB:  でもそれは国際的に音を定義するようになった音楽だった...

HFL:  
はい。最初からマーケットに輸出できるように作られていました。国のかたちを取り、それを入れ込んだ製品として一般的なパッケージにして、海外に送る事ができるようなものでした。

でも次に撤回させてください。クンビアが海外に渡ったとき、それは労働者階級のジャンルとして解釈されました。その範囲内では文化の押しつけではなかったし、それが侵入者として解釈されたのではありません。その背景に意図はありませんでした。なぜかというと、それは基本的にコロンビアから来たもので、政治的な計画を有するラテンアメリカの文化の文脈の中で認識されていなかったからです。それは、メキシコが持っていた文化産業を持っていなく、ブラジルが持っていた拡張計画に乏しく、アルゼンチンが持っていたヨーロッパ中心主義の伝統に欠けていたからです。それは一種の、アメリカ大陸にやってくる特定のコンテクストや、侵入する事を許可したものでした。そして一度到達すると、ごく一般的に言うと、それは労働者階級が受け入れたクンビアに対応することでした。そしてすぐに考え出され、どのように地元のミュージシャンに自国のお客さんに消化させる形態を作らせるかを簡単にするものでした。
その起源は無関係でした。何が関連していたかというと、熱帯の考え方を伝えられて、そのアイデアは消費され、地元のコンテクストに順応し得たからです。少なくとも最初は、この方法でメキシコやチリやペルーのクンビア、それ以上にも以下にも知られているように、要約されたファッションのようにクンビアがアメリカ大陸を旅する方法でした。


MB:   もう少し国としての意図について説明してもらえますか?

HFL:   私たちがアメリカ合衆国で
アメリカ文化を売るように、それによって特定の意識、価値、モラルがサポートされ分散されています。メキシコも同様です。コロンビアの場合はそうではありません。コロンビアの価値観、生き方、音楽にリンクした政府に関連づけられたアイデンティティはそうではないのです。コロンビアのレーベルは彼らがクンビアを輸出したら何が起こるかという事に気がついていたのです。唯一、彼らは国民性について重視していなかったということです。すべて彼らは最下層について気を使ったのです。そしてそれは飛ぶように売れました。


MB:   最初にどこからクンビアは発信したのですか?

HFL:
   
クンビアはアンデス諸国に到着するおよそ10年ほど前に、メキシコを通過しました。コロンビアではメキシコの文化がとても重要であったことが見受けられます。メキシコにコロンビアの音楽を輸出するアイデアはとても魅力的でした。メキシコは常にラテンアメリカの文化の首都であることを忘れてはいけません。だからメキシコシティーでは常にこの大きなトロピカルバンドの需要がありました。マンボはメキシコシティーに暮らすキューバのミュージシャンにより、メキシコでつくられたものです。他の場所ではマーケットは大きくありませんでした。リマとキトは、ボゴタと同時期に都会化が進みましたが、しかしボゴタがそうなる以前に既にメキシコシティーはモンスターになっていました。だからメキシコにはオーディエンスがいて、旅行あるいはコロンビアからマーケットにむけての音楽の輸出に適していたのです。


MB:   今のメキシコのクンビアシーンについて説明していただけますか?

HFL:   はい。メキシコは、融合と雑種の温床となっています。だから若いアンサンブル、ロックバンドでさえ、見るのがとても面白いです。そして彼らはポップやアコーディオンの趣向やメキシコのポップミュージックの明瞭な底意をクンビアに取り込んでいます。しかしそれらはクンビアとして認識されているのです。メキシコで受け入れられているクンビアを特定化するのは非常に難しいです。たくさんあるからです。


MB:   わたしは特にメキシコ北部のモンテレイでのクンビアシーンに興味があります。それについて教えていただけますか?

HFL:   とりわけメキシコの北部では、クンビアのようにだけではありません。彼らはそれをコロンビアのものとして認識された、メキシコのフォームが生み出すことのできた音楽としてたくさんそのような方法で習得されたものをクンビアとして識別しました。モンテレイではそれを “musica Colombia” (コロンビアの音楽)または、“Colombia” とさえ、言われています。これは強力なメキシコの感性でコロンビアの音楽を演奏する別の方法です。最も有名な例では、Celso Piña というミュージシャンです。


MB:   それは本当に面白いですね。どうやってそのようなサブカルチャーは産まれたのですか?

HFL:   それについては多くの謂れがあります。ひとつはいつ、クンビアが到達したのかということです。それはカリブ海沿岸、中心部との強い緊張感を持った地域から始まりました。
したがってメキシコの北部 ----- メキシコシティーから独立して強いアイデンティティを持つことに誇りを持った地域、ある特定のリスペクトを欠如して国境を越えるのに適した場所、国境の北からのものを消費しやすい場所 ----- に到達した時、それら音楽の全ての要素とともに共通の調和をもたらしました。大規模な範囲で「我々も感じるように、たくさんのことを表現するのは音楽だ」と北部メキシコの人々は捉えていました。また、労働者階級のコンテクストも強くあります。音楽的な観点から言うと、メキシコはアフリカ系、カリブ系、混血系として消費されていない、もしくは見られていなく、基本的には階級のコンテクストなのです。モンテレイでは “colombias” は El Barrio から来たキッズ達であり、それは近くの労働者階級出身です。だから彼らはクンビアをアコーディオンで演奏する事ができ、受け入れる事ができるのです。


MB:   
“クンビア・ディアスポラ”の他の例はなんですか?

HFL:
   ひとつの魅力的な反復がアルゼンチンで金融危機の時期におこりました。それは 
cumbia villera クンビア・ビジェーラ と呼ばれています。通常、アルゼンチンはトロピカルな場所だとは考えられておりません。またアフリカ系の人口の多いところとも考えられておりません。ブエノスアイレスは1800年代の半ばまではアフロ-アルゼンチン系の人口は多かったのです。今ではブエノスアイレスに行けば、アフリカ系のコミュニティを見る事はできますが、それはとても小さいものです。

クンビアはブエノスアイレスの労働者階級の間に介入しましたが、 
negros (ネグロ)や “the blacks”(黒人)と呼ばれるアルゼンチン人(アフリカ系という意味ではなく)によって受け入れられました。その言葉はただ貧しい労働者を指します。“black” というラベルが意味するところは、とても人種差別的なやりかたで、黒人や貧しいアフリカ系の人々はより低い社会に属していると考えられていました。もし誰かが強い労働者階級のアイデンティティを受け入れて、彼らがその遺産を誇りに思っていることを立証すのるなら、negros と呼んだりレッテルを貼ることができたでしょう。これらの negros はクンビアを受け入れたのです。

MB:   これらの音楽は金融危機にどのように関係しましたか?


HFL:  
クンビアビジェーラはアルゼンチン経済の破綻後に現れました。いきなり、大部分のアルゼンチンの人々はもはや中流階級とみなされる一方、いきなり、貧しいものとみなされました。ここで新しい感性に取り組んだ文化が生まれました。
Villera はテーマやトピック、新しいリアリティに取り組みました。彼らは強盗や明示的なセクシャルな歌詞、ドラッグについて唄っており、アルゼンチンではそのようなものは今までありませんでした。

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MB: Villera,  それはもちろんブエノスアイレス周辺の貧民街やスラムのことですか...



HFL:  はい。Villera はアルゼンチンをつくりました。初めての多くのケースで、貧しいブエノスアイレス周辺のスラムを扱う事を好まない現実は何か対処しないといけないです。彼らも、それは別のアルゼンチンで別の問題であるとして、認めたくないのです。だからそういった規模の cumbia villera は文化のプロダクトとしてとても重要なのです。

The cheto と呼ばれるブエノスアイレスの下町からきた中流階級は、スラムのキッズ達からは彼や彼女側の社会全体や政府の体制と見られています。そして、スラム街のキッズ達は正当なものとしてその法的秩序を見ていなく、その背景に何かあると感じています。彼らは国家秩序を、法律を破る事と、貧しい世代から略奪をルールづけることの違いの認識の失敗を、本質的に壊れた何かだと思っています。彼らはただその違いを見ていません。アルゼンチン人としてもそれは法律を侵害する彼らの権利と、過去に行われたより高い特権のセクターの整備を軽視しています。だから彼らは cumbia villera で表現しようとしているのです。


MB:   コロンビアに戻ると、今クンビアには何が起こっていますか?


HFL:  クンビアに関する面白い点はさきほども言ったように、様々に順応するフレキシブルさだと思います。今そこではアフロ-コロンビアンのルーツを見直したたくさんのバンドが居て現代の音楽に取り入れています。例えば、Bomba Estereo は米国でさえ売られ始めています。彼らは田舎から来たコロンビア人のアイデンティティをほのめかす音楽をトレースし、若い世代にアピールするように演奏し、アフリカのコンテンツを強調しています。
バジェナートのスター Carlos Vives が10年前にやった事とは違います。 Carlos Vives はクンビアを使いました。それは既に海岸から内陸部へと、白人文化となるプロセスを経ていました。そして彼はそこにロックの感性が組み込まれていたのでさらに白人化がすすんだのです。これらの新しいバンドについてはアフリカの伝統へと立ち返り述べました。現代の感覚と新しい楽器でありながらも彼らは、アフリカの伝統を強調したのです。


MB:   ここで大事な事はなんですか?クンビアのストーリーは私たちに何を教えてくれますか?


HFL:   クンビアは、表現とは別の意味として国家秩序に見捨てられ続けている社会の一部分のストーリーだということを言わなければならないと思います。それら全ての見捨てられた人々は国としてあるべき別の方法を祝福しようとしているし、それは必ずしも政府を介さなくてもよい、これは私の考えです。そしてコロンビアのケースでそれが起こったのと同じように、
それ以降の全てのクンビアは、国内のエリートや政府によって軽蔑視された場所から発生しました。それは皮肉にも全国に広がりました。だから、クンビアは他の地方やラテンアメリカの一角で産まれているのです。