2011年4月18日月曜日

Hector Fernandez-L'Hoeste on the Cumbia Diaspora





Hector Fernandez-L’Hoeste はアトランタにあるジョージア州立ジョージア州立大学で、ラテンアメリカの文化を教えている。彼はコロンビアのバランキヤ出身でクンビアとそのアメリカ各地にもたらす影響についてよく執筆している。彼はこれからデューク大学出版から発行される「All the Cumbias」と名付けられたクンビア・ディアスポラ選集の編集者である。


.
.
.
.

Marlon Bishop:  始めるにあたって、どうしてあなたはクンビアについて語るのですか?それはなぜ重要なのでしょうか?

Hector Fernandez-L‘Hoeste:  基本的に現時点では、クンビアはアメリカ大陸で最も人気があるジャンルだから重要なのです。アメリカ合衆国では本当にどこでもクンビア愛好者のラテン系の人々を見つける事ができます。メキシコは完全にそれにあたります。中央アメリカやパナマ、そして全てのアンデス系の国、ベネズエラ~チリに至るまで、アルゼンチンやウルグアイのような、それほど強くトロピカル音楽の伝統があると思われていない場所にでさえ、ローカルなクンビアのフォームを持っています。それはすべての場所で言えることです。いったい何故でしょうか? ひとつの理由としては、クンビアは比較的柔軟でシンプルな音楽的構造を持っていて人々に受け入れられ、少しづつ進化をし、それぞれのヴァリエーションが増えたというものです。それはクンビアの成功の秘密でもあります。


MB:  コロンビアでのクンビアの発展における背景について、少し教えていただけますか?

HFL:
  全般的に、クンビアはコロンビアのカリブ海の港町、カルタヘナで始まったとされています。コロンビアは僻地のようなもので、スペイン支配からも優先されてはいませんでした。
力の中心になる都市はありましたが、国の外で、州のような存在はほぼ完全に欠如していました。それは奴隷が、いわゆるパレンケ(メキシコの都市?)と呼ばれるような、奴隷によってルール付けられ組織された小さな街で生きるように ”主導された” ことです。
もともと、クンビアや他のアフロ-コロンビアンのリズムはそのようなコミュニティから来たものです。


20世紀のクンビアはビッグバンドの時代に影響を受けてきました。コロンビアでアメリカの文化影響が徐々に始まり、一連のミュージシャンはビッグバンドの形式に適応しようと決め、クンビアの様式を作り上げていきました。ある意味では、それはメデジンやボゴタのような異なった感性を持った、より大きな内陸都市で集客するための手段でもありました。そういったプロセスを経て、クンビアは中産階級や上流階級受け入れられました。しかし、50年代、60年代初頭には既に全国的なものになっていました。これらは主にLucho BermúdezPacho Galánを中心とするものでした。


MB:  それはクンビアが国外で人気になたのと同じ時期ですか?

HFL:  いいえ、それは全く違います。Lucho Bermúdez と Pacho Galán はツアーを少し行っていました。しかし、それは簡単に海外で受け入れられるにはあまりにも“コロンビアン”な音でした。彼らはメキシコや中央アメリカ、カリブ海諸国、アメリカ合衆国にさえ演奏旅行をしに行き知られるようになりました。しかし、後の国際的な chucu chucu(チュク チュク)スタイルのクンビアの熱狂はまだ起こりませんでした。

MB:  チュクチュク ? それはなんですか?

HFL:  説明しましょう。60年代にコロンビアで近代化の波が押し寄せました。レコーディングスタジオはクンビアがもともとつくられていた海岸沿いから、メデジンやボゴタに移動しつつあり、テクノロジーに組み込まれたプロセスの中にありました。テクノロジーが追いつくと、クンビアを作る上でより効率的な形態が生み出されました。もはやよりお金のかかる大きなバンドである必要もなくなりました。もっと小さなアンサンブルでオルガンやエレキギターを組み込む事ができたのです。

このうち、コロンビア人が最初に文字通り「ch, chchch, chchch」を発音した 
chucu chucu(チュク チュク)呼ばれた新しい種類のクンビアが生まれました。それは guacharaca グラチャカ、ギロのような擦るチューブの音です。最終的な結果は、この非常に単純なリズムでした。これは正式な学校教育なしで、ほぼ誰もが受け入れることができ、すぐに演奏出来る音です。大きな魅力ですよね。その美しさはすべて、それが最初の声を持っていない人に声を与えるということです。しかし海外沿い出身のミュージシャンは、クンビアに起こり始めていることを強く嫌っていました。

MB:  それは何故ですか? 

HFL:  トライディショナルな Toto La Momposina のようなクンビアを聴き踊り方を見ると、それほど chucu chucu とやっていないんですよね。リズムは遥かに複雑です。しかし彼らはその構造を使い、chucu chucu を発生させたような方法で進化させましたが、それは最初のアイデアではありませんでした。

MB:  でもそれは国際的に音を定義するようになった音楽だった...

HFL:  
はい。最初からマーケットに輸出できるように作られていました。国のかたちを取り、それを入れ込んだ製品として一般的なパッケージにして、海外に送る事ができるようなものでした。

でも次に撤回させてください。クンビアが海外に渡ったとき、それは労働者階級のジャンルとして解釈されました。その範囲内では文化の押しつけではなかったし、それが侵入者として解釈されたのではありません。その背景に意図はありませんでした。なぜかというと、それは基本的にコロンビアから来たもので、政治的な計画を有するラテンアメリカの文化の文脈の中で認識されていなかったからです。それは、メキシコが持っていた文化産業を持っていなく、ブラジルが持っていた拡張計画に乏しく、アルゼンチンが持っていたヨーロッパ中心主義の伝統に欠けていたからです。それは一種の、アメリカ大陸にやってくる特定のコンテクストや、侵入する事を許可したものでした。そして一度到達すると、ごく一般的に言うと、それは労働者階級が受け入れたクンビアに対応することでした。そしてすぐに考え出され、どのように地元のミュージシャンに自国のお客さんに消化させる形態を作らせるかを簡単にするものでした。
その起源は無関係でした。何が関連していたかというと、熱帯の考え方を伝えられて、そのアイデアは消費され、地元のコンテクストに順応し得たからです。少なくとも最初は、この方法でメキシコやチリやペルーのクンビア、それ以上にも以下にも知られているように、要約されたファッションのようにクンビアがアメリカ大陸を旅する方法でした。


MB:   もう少し国としての意図について説明してもらえますか?

HFL:   私たちがアメリカ合衆国で
アメリカ文化を売るように、それによって特定の意識、価値、モラルがサポートされ分散されています。メキシコも同様です。コロンビアの場合はそうではありません。コロンビアの価値観、生き方、音楽にリンクした政府に関連づけられたアイデンティティはそうではないのです。コロンビアのレーベルは彼らがクンビアを輸出したら何が起こるかという事に気がついていたのです。唯一、彼らは国民性について重視していなかったということです。すべて彼らは最下層について気を使ったのです。そしてそれは飛ぶように売れました。


MB:   最初にどこからクンビアは発信したのですか?

HFL:
   
クンビアはアンデス諸国に到着するおよそ10年ほど前に、メキシコを通過しました。コロンビアではメキシコの文化がとても重要であったことが見受けられます。メキシコにコロンビアの音楽を輸出するアイデアはとても魅力的でした。メキシコは常にラテンアメリカの文化の首都であることを忘れてはいけません。だからメキシコシティーでは常にこの大きなトロピカルバンドの需要がありました。マンボはメキシコシティーに暮らすキューバのミュージシャンにより、メキシコでつくられたものです。他の場所ではマーケットは大きくありませんでした。リマとキトは、ボゴタと同時期に都会化が進みましたが、しかしボゴタがそうなる以前に既にメキシコシティーはモンスターになっていました。だからメキシコにはオーディエンスがいて、旅行あるいはコロンビアからマーケットにむけての音楽の輸出に適していたのです。


MB:   今のメキシコのクンビアシーンについて説明していただけますか?

HFL:   はい。メキシコは、融合と雑種の温床となっています。だから若いアンサンブル、ロックバンドでさえ、見るのがとても面白いです。そして彼らはポップやアコーディオンの趣向やメキシコのポップミュージックの明瞭な底意をクンビアに取り込んでいます。しかしそれらはクンビアとして認識されているのです。メキシコで受け入れられているクンビアを特定化するのは非常に難しいです。たくさんあるからです。


MB:   わたしは特にメキシコ北部のモンテレイでのクンビアシーンに興味があります。それについて教えていただけますか?

HFL:   とりわけメキシコの北部では、クンビアのようにだけではありません。彼らはそれをコロンビアのものとして認識された、メキシコのフォームが生み出すことのできた音楽としてたくさんそのような方法で習得されたものをクンビアとして識別しました。モンテレイではそれを “musica Colombia” (コロンビアの音楽)または、“Colombia” とさえ、言われています。これは強力なメキシコの感性でコロンビアの音楽を演奏する別の方法です。最も有名な例では、Celso Piña というミュージシャンです。


MB:   それは本当に面白いですね。どうやってそのようなサブカルチャーは産まれたのですか?

HFL:   それについては多くの謂れがあります。ひとつはいつ、クンビアが到達したのかということです。それはカリブ海沿岸、中心部との強い緊張感を持った地域から始まりました。
したがってメキシコの北部 ----- メキシコシティーから独立して強いアイデンティティを持つことに誇りを持った地域、ある特定のリスペクトを欠如して国境を越えるのに適した場所、国境の北からのものを消費しやすい場所 ----- に到達した時、それら音楽の全ての要素とともに共通の調和をもたらしました。大規模な範囲で「我々も感じるように、たくさんのことを表現するのは音楽だ」と北部メキシコの人々は捉えていました。また、労働者階級のコンテクストも強くあります。音楽的な観点から言うと、メキシコはアフリカ系、カリブ系、混血系として消費されていない、もしくは見られていなく、基本的には階級のコンテクストなのです。モンテレイでは “colombias” は El Barrio から来たキッズ達であり、それは近くの労働者階級出身です。だから彼らはクンビアをアコーディオンで演奏する事ができ、受け入れる事ができるのです。


MB:   
“クンビア・ディアスポラ”の他の例はなんですか?

HFL:
   ひとつの魅力的な反復がアルゼンチンで金融危機の時期におこりました。それは 
cumbia villera クンビア・ビジェーラ と呼ばれています。通常、アルゼンチンはトロピカルな場所だとは考えられておりません。またアフリカ系の人口の多いところとも考えられておりません。ブエノスアイレスは1800年代の半ばまではアフロ-アルゼンチン系の人口は多かったのです。今ではブエノスアイレスに行けば、アフリカ系のコミュニティを見る事はできますが、それはとても小さいものです。

クンビアはブエノスアイレスの労働者階級の間に介入しましたが、 
negros (ネグロ)や “the blacks”(黒人)と呼ばれるアルゼンチン人(アフリカ系という意味ではなく)によって受け入れられました。その言葉はただ貧しい労働者を指します。“black” というラベルが意味するところは、とても人種差別的なやりかたで、黒人や貧しいアフリカ系の人々はより低い社会に属していると考えられていました。もし誰かが強い労働者階級のアイデンティティを受け入れて、彼らがその遺産を誇りに思っていることを立証すのるなら、negros と呼んだりレッテルを貼ることができたでしょう。これらの negros はクンビアを受け入れたのです。

MB:   これらの音楽は金融危機にどのように関係しましたか?


HFL:  
クンビアビジェーラはアルゼンチン経済の破綻後に現れました。いきなり、大部分のアルゼンチンの人々はもはや中流階級とみなされる一方、いきなり、貧しいものとみなされました。ここで新しい感性に取り組んだ文化が生まれました。
Villera はテーマやトピック、新しいリアリティに取り組みました。彼らは強盗や明示的なセクシャルな歌詞、ドラッグについて唄っており、アルゼンチンではそのようなものは今までありませんでした。

.
.
MB: Villera,  それはもちろんブエノスアイレス周辺の貧民街やスラムのことですか...



HFL:  はい。Villera はアルゼンチンをつくりました。初めての多くのケースで、貧しいブエノスアイレス周辺のスラムを扱う事を好まない現実は何か対処しないといけないです。彼らも、それは別のアルゼンチンで別の問題であるとして、認めたくないのです。だからそういった規模の cumbia villera は文化のプロダクトとしてとても重要なのです。

The cheto と呼ばれるブエノスアイレスの下町からきた中流階級は、スラムのキッズ達からは彼や彼女側の社会全体や政府の体制と見られています。そして、スラム街のキッズ達は正当なものとしてその法的秩序を見ていなく、その背景に何かあると感じています。彼らは国家秩序を、法律を破る事と、貧しい世代から略奪をルールづけることの違いの認識の失敗を、本質的に壊れた何かだと思っています。彼らはただその違いを見ていません。アルゼンチン人としてもそれは法律を侵害する彼らの権利と、過去に行われたより高い特権のセクターの整備を軽視しています。だから彼らは cumbia villera で表現しようとしているのです。


MB:   コロンビアに戻ると、今クンビアには何が起こっていますか?


HFL:  クンビアに関する面白い点はさきほども言ったように、様々に順応するフレキシブルさだと思います。今そこではアフロ-コロンビアンのルーツを見直したたくさんのバンドが居て現代の音楽に取り入れています。例えば、Bomba Estereo は米国でさえ売られ始めています。彼らは田舎から来たコロンビア人のアイデンティティをほのめかす音楽をトレースし、若い世代にアピールするように演奏し、アフリカのコンテンツを強調しています。
バジェナートのスター Carlos Vives が10年前にやった事とは違います。 Carlos Vives はクンビアを使いました。それは既に海岸から内陸部へと、白人文化となるプロセスを経ていました。そして彼はそこにロックの感性が組み込まれていたのでさらに白人化がすすんだのです。これらの新しいバンドについてはアフリカの伝統へと立ち返り述べました。現代の感覚と新しい楽器でありながらも彼らは、アフリカの伝統を強調したのです。


MB:   ここで大事な事はなんですか?クンビアのストーリーは私たちに何を教えてくれますか?


HFL:   クンビアは、表現とは別の意味として国家秩序に見捨てられ続けている社会の一部分のストーリーだということを言わなければならないと思います。それら全ての見捨てられた人々は国としてあるべき別の方法を祝福しようとしているし、それは必ずしも政府を介さなくてもよい、これは私の考えです。そしてコロンビアのケースでそれが起こったのと同じように、
それ以降の全てのクンビアは、国内のエリートや政府によって軽蔑視された場所から発生しました。それは皮肉にも全国に広がりました。だから、クンビアは他の地方やラテンアメリカの一角で産まれているのです。