2013年3月20日水曜日

Historian Ben Vinson III on Afro-Mexican History


Historian Ben Vinson III on Afro-Mexican History

cropped vincente
ベン・ヴィンソンIIIはジョンズ・ホプキンス大学の歴史学者で、そしておそらくアフロ·メキシカンの歴史における世界有数の学者です。 彼はアフロ・メキシカンに関する数冊の本を出版しています。Bearing Arms for His Majesty: The Free-Colored Militia in Colonial Mexico (Stanford, 2001)、 Flight: The Story of Virgil Richardson, A Tuskegee Airman in Mexico (Palgrave, 2004)、 Afroméxico (Fondo de Cultura Economica, 2004)などがそれにあたります。彼は黒人の歴史と音楽に関するAfropopの"Hip Deep"ラジオドキュメンタリー”La Bamba”に参加している学者でもあります。ここではプロデューサーMarlon Bishopによるヴィンソン教授へのインタビューを紹介します。メキシコを旅したAfropopのブログとアフロ・メキシコの映像シリーズもお見逃し無く。

Marlon Bishop: まず始めるにあたって、アフロ・メキシカンという用語は何を意味しますか?
Ben Vinson: 良い質問です。基本的に「アフロ・メキシカン」という用語はメキシコにいるアフリカ系の人々の事を指します。通常それは、奴隷貿易の時代に連れて来られた植民地時代の起源を持っている人々を指します。人々は彼ら自身がメキシコ人かどうかと考える傾向があるので、用語としての「アフロ・メキシカン」は、実際には少し異論があると思います。外国系のアイデンティティを盛り込む事が問題になり、最近では2012年9月にその用語を使用するメキシコ系のアフリカ人の集団によって宣言されました。

Scholar Ben Vinson
Scholar Ben Vinson

1940年からメキシコで使用されていた別の用語がありました 、それは「アフロ・メスティーソ」です。それは基本的に黒人文化を考えるのとは別ですが、本当の黒人文化は人種が混ざり合いパッケージされています。そのその用語は、アフロ・メキシカンの偉大な父、ゴンサロ・アギーレ・ベルトランによって大衆化されました。

MB: メキシコにおけるアフリカン人の存在はどのようにして始まりましたか?
BV: メキシコにアフリカン人が現れたのはは初期の植民地時代にさかのぼります。1519年から1520年にかけてスペイン人が上陸し、彼らを援護するアフリカ人を連れてきてました。時には奴隷として、時には現場作業員として、または率直に言うと征服者として。

Drawing of African Conquistador Juan GarridoDrawing of African Conquistador Juan Garrido

偉大なアフロ・メキシカンのコンキスタドールまたは征服者の一人にフアン・ガリードがいます。実際にスペインによる複数の地の征服に参加し、メキシコは彼の永眠した場所でもありました。故に、歴史は実際に奴隷の排他的な話ではないものでもあります。それはスペイン人が現れた最初期から、メキシコでは自由と奴隷に取り囲まれていた一つの例でもあります。

MB: そこから歴史を通して私たちに教えてください。次は何が起こりますか?
BV: 何が起こるかといえば、奴隷制度は16世紀に少し衰退を始めたことです。ラテンアメリカ全体に住んでいた先住民族の人々の何百万人のうち、70〜90パーセントの減少がありました。このことからスペイン王権は、代替する労働力資源を探し始めました。そしてアフリカの人々は、最有力候補であり実験的にカリブの国に始まり、それからメキシコに連れてこられました。
初期のアフロ・メキシカンは多くの産業で働いていました。ベラクルスや、他のメキシコの太平洋沿岸での綿花栽培や、銀鉱山や牛泥棒や使用人として。
17世紀には少し変化がありました。植民地の政府はプランテーション型の労働に従事している先住民の数を削減する政策を執ろうとしました。彼らは、それが既にネイティブの人口が下がり初めていたことが、非常に弊害をもたらすと危機を感じていました。そこでアフリカ人奴隷の輸入を増やしました。それが実際に我々がメキシコの奴隷貿易の全盛期期間と呼んでいるものは、およそ1580〜1650年代まで行われていたものです。スペイン人の新しい世界に連れてこられた奴隷のうち約半分はメキシコに行き、残りの半分の大多数はペルーの方に連れて行かれました。記録に残るおよそ25万人程の人々(おそらくはもっと)がメキシコに連れてこられました。

MB: その後、メキシコでは奴隷制は廃れていったのですか?またはそうではなかった?
BV: はい、それには多くの理由があります。1580年から1640年の間、スペイン王権はポルトガル王権に合併され、ポルトガル人は奴隷貿易の独占を始めました。その事が彼らに大量の奴隷を新世界に連れてくる事が可能になりました。1640年に独占が終了し、奴隷は18世紀後半の半ばまで続いた内部の奴隷貿易を通じ、違法な手段でやってきました。奴隷制度は終了しません。それは継続されましたが、メキシコに直接入ってくるアフリカ系の人々の数は低迷し始めました。これが本当のムラート、もしくは多くを占める人種の混ざった黒い集団の誕生と成長とは何かを示すものです。あまりにも多いので、およそ1810年までには、メキシコの人口の10%がアフリカ系の人々でした。これは当時のアメリカ合衆国の人口とほぼ同じでした。

MB: あなたの本「 Bearing Arms for His Majesty」では植民地軍のアフロ·メキシコ人の役割に焦点を当てていますね。そのことについて教えてください。
BV: アフリカ系の人々はラテンアメリカで兵役し、特にメキシコでは特に民兵組織であったことが重要な役割の一つです。1550年代に、アフリカ系の人々は民兵の中のかなり上位のランクに入っていました。私が民兵の研究で発見したことの一つは、民兵が特定のポジションに所属していたことは、アフリカ系の人々を調和させるための構造を作ったという事です。それは共に民兵の特権にまつわるアイデンティティの感覚を発展させるものでもありました。民兵を通じて、アフリカ系の人々は、重要な職務、火災時に旧副王宮殿を防護したり、警察官を派遣したりなど、本当に防護され、スペイン王制の支持を得る事が出来ました。1700年代に警察がまだ存在しなかった世界では、これら黒人の兵隊が基本的に街をパトロールしていて、 人々は法律を遵守する市民だったことが確認できます。アフリカ系の人々はまた、地方の政治を発展させるためにこれらの民兵を使っていました。彼らは、知事や市長の権限に従事するために、銃とその評判を使うことができたので、それはアフリカ系の人々の非常に重要な政治の場となりました。これらは植民地時代に、これらの民兵は本当にアフロ・メキシカンのアイデンティティを沈殿させ、アフロ・メキシカンの存在に関する議題を展開できる方法のほんの一部です。

MB: メキシコの軍雄たちの一部は、アフロ・メキシカンだったと言われておりますが、それは正しいですか?
BV: 確かに、もっとも有名な恐らく2人いて、一人はメキシコの独立戦争時代のJosé María Morelosです。彼はメキシコの太平洋地域におけるアフリカ系の他の人々の支援を受け、メキシコを解放する主要なゲリラ戦士でした。噂によると、彼はアフリカ系として見られないよう巻き毛を隠すために、ストッキングキャップともいえる、頭の上にハンカチを巻いていました。
Morelos
José María Morelos

1820年代後期のメキシコの大統領だったビセンテ·ゲレロもそうでした。実際に彼は1829年頃、奴隷制を廃止するための責任者でもありました。彼は独立闘争の別の主人公であり、もちろんその担当者でもありました。言うなれば1829年のバラク・オバマでした。アフロ・メキシカンの歴史の中で最も偉大な2人は恐らくこの二人でしょう。

MB: これらの時代にメキシコでどれほどアフロ・メキシカンが重要だと見なされていたか、それはどうして国民の意識から消えてしまったのかがとても奇妙です。何が起きたのですか?
BV: はい。最初にまず、アフロ・メキシカンは完全に消える事はありません。しかし何が起こるかというと、1820年代初頭にメキシコがスペインから解放されたときから、市民にとって新たなダイアログが始まりました。先住民が中心となり、受け入れられ、国民から絶賛されることになりました。
もうひとつ指摘すべき事があります。特に1800年代は、国の北部を植民地化するためにメキシコに来たアフリカ系アメリカ人がたくさんいました。また鉄道の路線や他の産業で働くためにメキシコに入って来たカリブ海から多くの人々がやってきました。世界中の他地域から、これらの新しい黒人が入ってくると何が起こるかというと、彼らはメキシコの政治家のために便利な仕組みを作りました。それは「黒人はここにはいない。いるのは外国人だ。」というものでした。それはメキシコの政治家が使っていた言葉で、というのも、率直に言うと、19世紀にはアフリカ系の人々で構成されていることは、国として呼ぶには喜ばしくなかったからです。アフロ・メキシカンは消えた事はありません。そして国の風景を通して探す事が出来るでしょう、しかし彼らの政治的な言説に起きている事や、アフロ・メキシカンが国民としてのアイデンティティを描くことを消し去るきっかけが増えてしまっていることに気がつくでしょう。

MB:  MorelosやGuerreroのような国民的ヒーローが、その後にメキシコの州全てを名付けたような人々から、彼らのアフロ・メキシカンの遺産はなぜ祝福されなかったのですか?
BV: それには大きな理由があります。彼らはアフリカ系とされる必要がありませんでした。というのもそれは国家の言説ではないからです。人々は人種の話をする前に、市民について話します。実際現在もそのようなことがあるでしょう。それは、メキシコおよび他のラテンアメリカの国が持っていた、"人種問題"を抱えていた米国のような国と隣り合い、区別することができた方法でした。これらの場所では平均化の一部として人種を含んでいなかったため、差別はありませんでした。
また、これらのアフロ・メキシカンのコミュニティは人種の混合に関わっていたということを覚えておく必要があります。彼らはその点においてアメリカ合衆国に率いられていた世紀を持っていて、そしてもちろん私達の人種差別に関する法律は多くの点で、アフリカ系の人々が人種に関係なく入り交じることを妨げています。だから、より開かれた社会の中では、アフロ・メキシカンが国家の人口のより広い人種の一部になることが可能となります。今日では、たとえば特定の個人の名前で Juan Pardo や Julia Moreno と名付けられた人を時々見かけます。これらは黒人の名前で、文字通りJuan Brown 、Julia Blackという意味です。それらはアフロ・メキシカンが世代を遡り繋がっているという糸口になります。

MB: それで、時代を早送りすると、今アフロ・メキシカンはどのあたりにいますか?
BV:  今では、アフリカ系の人々は、太平洋側のアカプルコの南Costa Chica(小さな海岸という意味)と呼ばれる地域にいます。この地域は1960年あたりまで、先述したように「忘れ去られてた」場所でした。1960年代までハイウェイが作られる事もない田舎の一つでした。だからその分離と孤立を考えると、外部からの妨げが最小限であったので、植民地時代からアフリカ系の人々の人口が増えていた地域であり続けたのです。特に重要な他のアフロ・メキシカンの人口の多いところは湾岸にあるベルクルスという町です。こちらはさらに複雑な状況です。というのもここのアフリカ系の人々は、その先祖が植民地時代に遡る人々と同様に、最近の移民の両方がいるからです。アフロ・キューバ人やたくさんのカリビアンが、人や物の流通で当時主要だったベラクルスの港を通じて流入してきました。
Veracruz
Veracruz

ベラクルスはメキシコ人の想像の中では黒人の町だとしばしば見なされてきました。それは  "黒人は外国人で、彼らは外から来た" または "黒人が外国人でないのなら、この特定の領域内に閉じ込めて、国内の他の場所に広がらないように" とする動向のための格好の地でした。まだ知られていない部分があるかもしれません。メキシコの南部の国境側にも主にベリーズからやってきたアフリカ系の人々がいます。アメリカ合衆国との国境近い北部にもほんの少しですが、そこにもアフリカ系の人々が散らばって生活しています。そこはアフロ系アメリカ人が19世紀に植民地を設立した場所でした。広くなく、微かなコミュニティがあり、しかし少なくとも彼らは認められる価値があります。

MB:  彼らが使う「第3のルーツ」とは?
BV:  1980年代初めに、メキシコ人の「第3のルーツ」のムーブメントがどこからともなく起こりました。それはメキシコの3つめのルーツ、アフリカ系のルーツに目を向けようとする政府を主体とする構想でした。またそれは、メキシコ人の混じった人種を確認するための政策でもありました。それはアフロ・メキシカンの歴史は必ずしもアフロ・メキシカンを理解するだけが必要なのではなく、人々がどのように大衆に交わっていったかを理解することが重要です。それが1980年代に始まったプロセスです。それは学者や学生、大衆からさらに注目を集めるようになりました。

MB: この動きはアフロ・メキシカンのコミュニティーそのものにどのような影響を与えましたか?
BV:  ひとつはアフロ・メキシカンのコミュニティーそのものに、メキシコ東海岸の政治的で文化的なグループに動きを与えることになりました。特に何年もメキシコに住んでおり、アフリカ系の人々に彼らの歴史を着目させたトリニダード人の神父 Padre Glyn Jemmott の支援などがそうです。それは大学のコミュニティで、ダンスグループや劇場、ラジオ、アフロ・メキシカンのヒップホップ、他たくさんの事が再度、文化的に開花した事に関与しました。これは現時点で、メキシコの今の風景をつくる重要な傾向です。

MB: 最後の質問です。これらは音楽に関連していますか?
BV: もちろんです。忘れてはいけないことの一つは、これらの人々が文化を創り、1500年代にメキシコに奴隷として上陸した瞬間に始まり今に至るまで、アフリカ系の人々がコミュニティーを作り上げ、文化的な生産物の側面で行われていたということです。文化が作られると、人々は意識的にあるいは無意識のうちに、自分たちのルーツに戻っていくようです。アフロ・メキシカンの文化の側面があるため、温存されてきました。それには繰り返しがあり、現代において文化的実践の再適応を経て、時代を超えてアフロ・メキシカンの習慣は系譜され生き延びて来たのだと思います。痕跡は微かにしかありませんが、その関連性と意味は常に、植民地時代から現代へと最作成されます。